厚生経済学は、通常、A・C・ピグーの主著『厚生経済学』The Economics of Welfare(1920)から始まった経済学の一分野と解されているが、ピグーが同書で導出した命題のかなりの部分は、とくに厚生経済学と銘打つこともなく簡単な形でだが、師のA・マーシャルが述べているし、A・スミス以来の主要な経済学のほとんどすべては、実質上、多かれ少なかれ厚生経済学だ、と説く論者もいる。また第二次世界大戦以後になると、経済政策の基礎理論や規範的経済学一般を厚生経済学とよぶ傾向が広まっており、さらにK・J・アローに始まる社会的選択の理論や、1970年前後に内外でほぼ市民権を獲得したとみてよい公共経済学public economicsをも厚生経済学に含めるか否かについても意見が分かれており、現在、厚生経済学についてほぼだれもが承認する定義は、社会の厚生ないし福祉welfareを問題にする経済分析という非常に漠然とした一般的なもの以外、ないに等しい。
ピグーについていうと、彼は社会の厚生一般のなかで直接・間接に貨幣で測定できる部分を「経済的厚生」とよび、両者は一般に正(プラス)の相関関係があるという想定のもとに、国民分配分(国民所得)を中心に考察を進め、生産・分配・変動の三面に関する有名な「厚生経済学の三命題」を導出した。このうち変動を扱った部分は『厚生経済学』の第2版(1924)以降、独立の『産業変動論』(1926)に移されたため、以後、厚生経済学としては静学面だけがおもに論じられるようになった。しかし、「他の条件にして等しい限り、社会の経済的厚生は貧富の懸隔が減少すればするほど増大する」という分配に関する第二命題は、ピグーが暗黙裏に想定していた効用の基数性(絶対的大きさでの測定可能性)と効用の個人間での比較可能性の前提がない限り、厳密には導出不可能だが、そのどちらの前提もが経験的には実証不可能であることが、1930年代前半に、K・G・ミュルダール、より直接のきっかけとしてはL・C・ロビンズによって批判された。以後、厚生経済学は、効用の基数性の仮定を捨てて序数的効用概念をとり、また効用の個人間での比較可能性の仮定を必要とする分配問題をほぼ離れて、生産面に分析を限定し、「パレート最適」概念を中心に、補償原理などを随伴する、J・R・ヒックスやN・カルドアらが中心の通称「新厚生経済学」new welfare economicsの局面に移行した。
新厚生経済学は、当初、効用に関する先の二つの仮定を捨てることによって価値判断から自由になったと想定していたようであるが、社会の経済的厚生を、社会を構成している個々人の経済的厚生の総和とみなす点では、依然として価値判断を含んでおり、この点が1930年代末葉からA・バーグソン(当時はA・バークと称した)やP・A・サミュエルソンらの社会(的)厚生関数social welfare functionの構想を伴う研究によって徐々に明らかにされ、その延長線上に、1951年にアローの一般可能性定理が提出されるに及んで、厚生経済学は、一時、まったく行き詰まったかの観を呈した。
冒頭に書いたように、現在も厚生経済学が何をさすかは人によって一定していないし、今日の経済政策論では効率と公正の関係が問われたり、次善の理論が論じられたり、様相はかなり多様化しているが、依然そこで中心的役割を演じているのは新厚生経済学の考え方、ことに「パレート最適」概念で、「すべての競争均衡はパレート最適点であり、すべてのパレート最適点は競争均衡である」という命題が「厚生経済学の基本定理」とよばれている。また、公害の分析などで重要な役割を演じている内部・外部経済論、私的限界純生産物と社会的限界純生産物との乖離(かいり)などの問題は、マーシャルに始まり、ピグーが展開した考えの線上のものである。
[早坂 忠]
『A・C・ピグー著、永田清監訳『厚生経済学』全4冊(1953~55・東洋経済新報社)』▽『今井賢一他著『価格理論Ⅱ』(1971・岩波書店)』▽『岡野行秀・根岸隆編『公共経済学』(1973・有斐閣)』▽『荒憲治郎他編『経済学2 厚生経済学』(1976・有斐閣)』▽『熊谷尚夫著『厚生経済学』(1978・創文社)』
規範経済学とも呼ばれ,所与の価値判断に照らして経済組織の運行機能を評価することを課題とする。経済学のこの分野を初めて体系的に取り扱ったA.C.ピグーの主著《厚生経済学》(1920)の標題に従って,厚生経済学と呼ばれることが多い。
厚生経済学は,特定の価値判断を提唱ないし主張するものではなく,考察に値すると思われる所与の価値判断の帰結を示すことがその課題である。これまでに考察された価値判断の中で中心的なものはパレート改善の基準である。どの個人の満足水準も低下させず,少なくとも1人の個人の満足水準を高める変化をパレート改善という。実現可能な資源配分で,もはやパレート改善不可能なものをパレート最適という。これは,資源がむだなく効率的に使われている状態である。厚生経済学が確立した中心的命題の一つに,外部経済や外部不経済(外部経済・外部不経済)あるいは公共財がない経済において,完全競争市場で均衡として達成される資源配分はパレート最適であり,また逆に,任意のパレート最適は完全競争市場の均衡として達成できるという基本定理がある。現実の市場で完全競争は厳密には成立していないから,その働きに任せておけばパレート最適が達成されるという必然性はないが,完全競争状態に近づけることによってパレート最適に近いものを実現しようとする経済政策の根拠となるものは,この基本定理である。しかし,この定理の成立の背後には,外部経済,外部不経済,公共財が存在しないという大前提がある。放送局の放送サービスや国家の国防サービスのような公共財は現実に存在し,外部不経済は公害という形でもみることができる。したがって市場における競争が完全であってもパレート最適が達成される必然性はなくなり,独占的要素を排除して競争を完全な状態に近づけるという政策の理論的根拠は弱くなる。かりに上記の大前提が満足されたとしよう。この場合でも,ある産業で完全競争が成立せず,その状況は変更できないものとしたとき,残りの産業のあり方はどうあるべきかという問題がある。残りの産業がどうあろうとも,厚生経済学の基本定理により,パレート最適の達成は困難であろう。この場合の問題は次善second best問題と呼ばれ,その解は残りの産業で完全競争を成立せしめることとは異なることが知られている。この主張は次善定理と呼ばれる。
パレート最適の達成がいくつかの理由で妨げられるとき,経済政策の問題としては,なんらかの改善を実行することが考えられる。多くの経済政策の効果はある個人には有利に作用し他の個人には不利に作用するから,一般にパレート改善を実行するものではない。したがってパレート改善という価値判断だけに頼れば,経済政策の可否を決定できない場合が多い。そこで,この価値判断を次のように拡張することが考えられた。二つの資源配分A,Bについて,Aを個人間で再分配して資源配分Cに到達してCがBのパレート改善となるようにすることが可能なとき,AがBより良いと判断するのである。この考え方は補償原理と呼ばれるが,この原理によれば,AがBより良く同時にBがAより良いという矛盾した判断が生ずることがあり,このままの形では使えない。そこで,いくつかの変形された補償原理が提案されたが,成功しているとはいえない。
厚生経済学の基本定理,次善定理,補償原理に関係する価値判断は資源配分の効率性にかかわるものであるが,資源配分の公正に関する価値判断も考察の対象となる。古くから論議されているものは個人間の平等な配分を正当化しようとするものであるが,十分な根拠を見いだすのは困難である。一般に価値判断を表現する方法として,評価すべき資源配分にその望ましさに応じて数値を割り当てる社会的厚生関数という概念が用いられることがあるが,これを民主的手続に従って構成することは不可能であるというK.J.アローの一般可能性定理が知られている。これは,厚生経済学が基礎を置く社会的価値判断の形成には困難が伴うことを示している。この定理を出発点として社会的選択理論と呼ばれる分野が発展している。
執筆者:長名 寛明
ケンブリッジ学派の経済学者ピグーの主著。1920年刊,第4版33年刊。功利主義の伝統を受けついで,社会のすべての人々の効用の総和を最大にすることが経済政策の目標であるとみる立場から,生産の効率化と分配の平等化のための諸政策を論じている。おもな内容は,(1)福祉と国民所得との関係,(2)資源配分の効率化のための政策,(3)分配の平等化が国民所得の大きさに及ぼす影響,などである。このうち(2)に関連して,資源投入の私的生産性と社会的生産性との不一致が重要視されている。本書の第1版は前著《富と厚生Wealth and Welfare》(1912)を増補したものであるが,そのうち財政と景気変動に関する部分はそれぞれ別の単行書にゆずられて,第2版以降の本書からは省かれている。
執筆者:熊谷 尚夫
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…マーシャルが主著《経済学原理》(1890)を出版したのはこのような時期であったから,彼は資本家,企業家,労働者という階級間の調和的発展に基本的関心を向け,短期では労資の対抗関係があるようにみえるが,長期では〈国民分配分national dividend〉(国民所得と同義。厚生経済学的に使われた)が増大するため,両者の調和が可能であると考えたのである。これに対し,マーシャルの後継者A.C.ピグーの《厚生経済学》(1920)は,第1次大戦前後のイギリスの経験に立って理論が展開されている。…
…著書は30冊に近く,パンフレットや論文は100編をこえる。彼の名を高めた《厚生経済学》(1920,4版1933)は,社会の経済的厚生ないし福祉を最大にするという目標からみて,自由な市場経済のはたらきはどこまで有効で,どこに欠陥をもつかを明らかにし,それを是正するための経済政策の理論を展開している。ピグーはまた早くから労働問題や失業問題に関心をいだいていたが,とくに《失業の理論》(1933)はケインズの激しい批判の対象となった。…
…とくに問題となるのは,各個人の効用の総和を経済厚生とする操作の背後にある,個人間の効用を比較できるという判断である。このようなピグーの厚生経済学を批判し,できるだけ受け入れられやすい価値判断だけに基づいて,経済厚生の最大化を考えるのが新厚生経済学である。すなわち,他の人の効用を減ずることなしには,だれの効用をも増加しえない状態を最適とする基準を採用するものであり,この結果所得分配の問題が切り離され,資源配分の問題だけが取り扱われることになった。…
…いかなる定義によろうとも,社会的厚生は種々の経済的・非経済的な要因に影響を受けようが,とくに直接または間接に貨幣という測定尺度に関連づけられる部分を,A.C.ピグーは経済的厚生と呼んだ。経済的厚生に影響する要因を研究し,それをできるかぎり高めるための制度と政策のあり方を考察するのが,厚生経済学である。 ところで,個人の厚生を定義する一つの方法は,それを個人の自発的選択行動と結びつけることである。…
…この派の代表者とみなされているのはロビンズLionel Charles Robbins(1898‐1984)とF.A.vonハイエクである。ロビンズは処女作《経済学の本質と意義》(1932)において,有名な〈経済学の希少性定義〉を与えるとともに,相異なる個人の基数的効用の比較可能性を前提とするA.C.ピグーの〈旧〉厚生経済学の基礎を厳しく批判した。厚生経済学から分配に関する〈非科学的〉価値判断を放逐し,資源配分の効率性の確保にのみ科学としての厚生経済学の可能性を認めるN.カルドア,J.R.ヒックス,A.P.ラーナーらの〈新〉厚生経済学は,ロビンズによるこの批判を契機として誕生したものである。…
※「厚生経済学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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