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江戸幕府10代将軍(在位1760~86)。幼名竹千代。9代将軍家重(いえしげ)の長子。母は梅渓(うめたに)氏お幸(こう)。元文(げんぶん)2年5月22日生まれ。1760年(宝暦10)9月に将軍就任。祖父吉宗(よしむね)は家治の幼少時には、不肖の家重にかわるものとしてその成長に期待をかけていたが、長じては凡庸となり、老中たちの政治、とくに後半は田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治に埋没していた。治政中は宝暦(ほうれき)~天明(てんめい)期(1751~89)の幕藩制転換期にあたり、しかも明和(めいわ)の江戸大火、天明の浅間山大噴火、大飢饉(だいききん)と百姓一揆(ひゃくしょういっき)、都市打毀(うちこわし)の大高揚と社会不安の激化した時期とぶつかっていた。天明6年8月25日(公表では9月8日)病死、法号は浚明院(しゅんめいいん)。贈正一位太政大臣(だいじょうだいじん)。上野の東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)に葬られる。
[山田忠雄]
1737.5.22~86.8.25
江戸幕府10代将軍(在職1760.9.2~86.9.8)。9代家重の長男。母は側室至心院。幼名竹千代。法号浚明院。祖父吉宗の薫陶をうける。1760年(宝暦10)将軍職を継ぎ,父家重の遺言で田沼意次(おきつぐ)を重用。田沼によって情報を統制され政治的活動が制限されたため,画業に専念するが,傑作には「政事之暇(せいじのひま)」の落款を押したという。生前に実子を失い,田沼の意見で一橋家から治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)を迎えた。86年(天明6)8月初めから水腫で療養中だったが,16日田沼の推薦した町医者の調合薬を服用したところ25日に急死したといわれる。家治の死は反田沼派によって田沼失脚に利用され,田沼は26日辞職を願い,27日老中を罷免。発喪は9月8日。この後10カ月の権力闘争をへて87年6月,松平定信(さだのぶ)が老中に就任。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
江戸幕府10代将軍。9代将軍家重の長子。幼名竹千代。幼少から明敏で祖父吉宗に期待され,学芸に長じ囲碁,将棋も巧みだったという。1760年(宝暦10)父の譲りを受け将軍となる。86年に没するまで27年間の治世は,側用人田沼意次が実権をにぎり,一面新時代への進取・積極的気風もあったが,他面天災も加わり,政治の腐敗,社会の退廃・疲弊など体制の危機が進行する時代であった。
執筆者:辻 達也
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(松尾美恵子)
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…江戸時代,日光東照宮に参詣すること。社参者には,日光例幣使,将軍,大名,旗本,御家人,一般の武士や農工商の庶民など,さまざまの身分階層にわたったが,御宮(東照宮)と大猷院(家光)御霊屋(おたまや)に拝礼を許されるのは旗本以上に限られ,御家人以下の身分の者は拝見が許されただけであった。江戸時代を通じて16度行われた将軍の社参は,4月17日(家康命日)の法要に集中しているが,莫大な費用と人手をともなうので,4代徳川家綱以降は8代吉宗,10代家治,12代家慶に各1回が記録されているにすぎない。…
※「徳川家治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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