元帝(読み)げんてい(その他表記)Yuán dì

精選版 日本国語大辞典 「元帝」の意味・読み・例文・類語

げん‐てい【元帝】

  1. [ 一 ] 中国、前漢の第一一代皇帝在位前四九‐前三三)。姓名は劉奭(りゅうせき)。幼少より儒学好み即位後、儒生を多く任用した。(前七五‐前三三
  2. [ 二 ] 中国、三国時代魏の第五代皇帝(在位二六〇‐二六五)。姓名は曹奐。高貴郷公の後をついで即位したが、司馬炎に位を奪われ、魏は亡んだ。(二四八‐三〇二
  3. [ 三 ] 中国、東晉の初代皇帝(在位三一七‐三二二)。姓名は司馬睿(しばえい)琅邪(ろうや)王となり、西晉滅亡後即位し、晉王朝を継承。江北の回復を志したが、大将軍王敦の反乱招き、乱中に病死。(二七六‐三二二
  4. [ 四 ] 中国、南朝梁の第三代皇帝(在位五五二‐五五四)。姓名は蕭繹(しょうえき)。諡(おくりな)は孝元皇帝。侯景の乱を平定して、即位。のち西魏に攻められ、没した。(五〇八‐五五四

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改訂新版 世界大百科事典 「元帝」の意味・わかりやすい解説

元帝 (げんてい)
Yuán dì
生没年:276-322

中国,東初代の皇帝。在位317-322年。姓名は司馬睿(しばえい),廟号は中宗,宣帝司馬懿(しばい)の曾孫八王の乱の末期,下邳(かひ)(江蘇省)に鎮守し幕府を開いて揚州江蘇浙江,安徽,江西)の軍事権を統轄した。華北の混乱が一段と激化した307年(永嘉1),名臣王導の計に従って建鄴(南京)に移鎮し,亡命貴族や三呉地方の豪族幕下に招いて人心収攬に努める一方で,豪族相互の対立を巧妙に利用して勢力を固め,晋側諸勢力の盟主に推された。劉聡が愍帝(びんてい)を捕らえると317年晋王となり建武と改元して事実上の王朝体制をとり,翌18年(大興1)愍帝殺害の報に正式に即位した。晋の中興,晋室の南渡と呼び,ここに272年に及ぶ南北対立の形勢が定まった。貴族や豪族の力が強く,なかでも琅邪郡出身の王氏が内外に権をとり,〈王と馬と天下を共にす〉といわれた。帝は劉隗(りゆうかい)(273-333)ら下級士人を重用して集権化をはかったが,王導の従兄王敦の反乱を招いて混乱の中で憂死した。
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元帝 (げんてい)
Yuán dì
生没年:508-554

中国,南朝の第3代皇帝。在位552-554年。姓名は蕭繹(しようえき)。武帝第7子。侯景の乱が起こると出鎮中の江陵(湖北省)で亡命貴族らを結集して対抗し,侯景敗死後に即位した。厳政で国勢の回復をはかったが,西魏の攻撃に惨敗して殺された。王公以下の数万人が奴婢とされて長安に拉致され,南朝貴族制は大きな打撃を受けた。学芸の天才で特に老荘を好み,多くの著述を残した。十数万巻の蔵書は落城の直前に全部焼きすて,〈文武の道,今夜窮まる〉と嘆いたという。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元帝」の意味・わかりやすい解説

元帝[前漢]
げんてい[ぜんかん]
Yuan-di; Yüan-ti

[生]元鳳6(前75)
[没]竟寧1(前33)
中国,前漢第 10代の皇帝 (在位前 49~33) 。姓名は劉せき (りゅうせき) 。父は宣帝,母は共哀許皇后。幼少から儒学を好み,宣帝の法律重視の政治を批判したので,宣帝は「漢家おのずから制度あり,いかんぞ徳教に任じ,周政を用いんや。…我家を乱す者は太子か」と嘆じたという。即位後は宣帝の言のごとく,皇后王氏一族の専横を招き,外戚,宦官の争いも加わって,政治は衰えた。

元帝[東晋]
げんてい[とうしん]

司馬睿」のページをご覧ください。

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旺文社世界史事典 三訂版 「元帝」の解説

元帝(東晋)
げんてい

司馬 睿 (しばえい)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「元帝」の意味・わかりやすい解説

元帝(晋)
げんてい

司馬睿

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