入谷村(読み)いりやむら

日本歴史地名大系 「入谷村」の解説

入谷村
いりやむら

[現在地名]志津川町入谷

志津川村の北から西にかけてを村域とし、現志津川町では海に接しない唯一の村。村域は広大だがほとんどが北上高地に続く山地で、八幡はちまん川とその支流および水尻みずしり川の流域に開けた十数ヵ所の小盆地に集落が形成されている。志津川村で気仙けせん道から分岐、当地を経て登米とめ米谷まいや(現東和町)へ向かう道(米谷道)と、坂の貝さかのかい峠を越えて歌津うたつ伊里前いさとまえ宿(現歌津町)へ向かう道が主道で、このほか滝峰たきのみね坂を越えて北隣の馬籠まごめ(現本吉町)へ向かう道、弥惣やそう峠を越えて西隣の登米郡鱒淵ますぶち(現東和町)へ向かう道などもある(安永風土記)。当地には産金伝承があり、松根子まつねごにある古碑(千人塚)は、当村「人おて山」が金山として繁盛していた頃、山で遊女との心中事件があり、そのため山が崩れて死んだ数百人の金掘の供養碑と伝え、それは貞治(一三六二―六八)の頃という(同書)


入谷村
いりたにむら

[現在地名]平村入谷

中江なかえ村の北、庄川右岸山地の斜面に位置し、東は山が高く西は庄川までの傾斜が強い。南の高草嶺たかそうれい村・中江村とは人家を接する近さにあり、中江村とは一村のようにしてきた。集落から離れた上の台地に屋敷跡があって平家落人の高田たかだ屋敷・野原権之守の伝説などを伝える。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「小谷」の内に「入谷」(人名)がみえる。寛永七年(一六三〇)の高一〇四石余、免四ツ二歩二厘(高・免は幕末まで変化なし)、納所金子一五両二分余・塩硝代金子一匁四分余(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)


入谷村
いりやむら

[現在地名]足立区入谷一―九丁目・入谷町など

毛長けなが(現毛長川)弥兵衛やべえ(現新芝川付近)の間に広がり、舎人とねり領に属する。東は古千谷こぢや村・舎人町、北は江戸袋えどぶくろ(現埼玉県川口市)。村組(ズシ)として金方かねかた鶴巻つるまき中郷なかごう町屋まちやしもがあった。

田園簿に村名がみえ、田八三一石余・畑一〇六石余。元禄郷帳では高七八五石余に減少。助郷役は日光道中千住宿に出役、享保四年(一七一九)からは鷹場御用に伴う減免として村高の七割の高で課役が行われる七分高の村となり勤高三三二石(「廻状村次組合控」高田家文書)


入谷村
いりやむら

[現在地名]座間市入谷一―五丁目・立野台たつのだい・ひばりがおか一丁目・同五丁目・座間入谷ざまいりや小松原こまつばら一―二丁目

宿しゆく村の東南にあり、東は栗原くりはら村、南は上今泉かみいまいずみ(現海老名市)に接する。宿村との境界は入組んでいて明確でない。正保国絵図には「座間」とあり、寛文四年(一六六四)久世広之領知目録(県史四)や元禄国絵図は「座間入谷村」「座間宿村」と分けて記す。元徳二年(一三三〇)六月九日長井高秀書状(県史二)に「座間郷」がみえる(→宿村

近世は、旗本青山領、幕府直轄領、久世(のち下総関宿藩)領、再び幕府直轄領と替わり、元禄一〇年(一六九七)以降旗本酒井領。同一二年三月二五日、当村および宿村と新戸しんど村・磯部いそべ(現相模原市)との間に数年来続いてきた秣場争論に対し、勘定奉行裁許状(県史六)が出され、当村側の申し分が認められている。


入谷村
にゆうだにむら

[現在地名]明日香村大字入谷

はた村南方の谷間村落。「日本書紀」皇極天皇三年一一月条の「大丹穂おおにほ山」とし桙削ほこぬき寺跡を当村に求める説がある(日本地理志料)。俗称堂屋敷どうやしきに礎石があるが古瓦の出土はなく今後の調査を必要とする。

近世を通じて高取藩領。正保二年(一六四五)入谷かやもり村から分離独立、検地の結果、村高は一二八・六八石。


入谷村
いりやむら

北西に箱根山、南を千歳ちとせ川が流れ、南は伊豆国賀茂かも郡伊豆山権現領、北は土肥堀内どいほりのうち村と接する。近世は小田原藩領。寛永初期の小田原領西筋村々高ノ帳に「入谷」とあり、村高五七三石余、家数一六八、うち名主かち小引三・木ち引三・本百姓三九(うち鉄砲九)・わき一二〇。また正保国絵図には「土肥入谷」と載せる。字湯河原に温泉が湧き、慶安四年(一六五一)には大水によって本湯のほか一三ヵ所に湯が湧き、藩は入谷村(宮上村)の者に限って湯屋を造ることを許可した(「永代日記」九月二三日条)


入谷村
にゆうだにむら

[現在地名]菟田野町大字入谷

大神おおがみ村東南、入谷川の谷間村落。中世には丹生谷にうだに庄があり、深紅色を呈する辰砂(水銀鉱)の産地で、「万葉集」に「山跡の宇陀の真赤土」とあるように赤色を帯びた土地であった。「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年八月二日条の「菟田の血原」の伝承も赤色土質にちなむ説話であろうか。

慶長郷帳の村高一二六・七一三石。


入谷村
にゆうだにむら

[現在地名]多賀町霊仙りようぜん

今畑いまはた村の西にある。寛永石高帳に高五二石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男八九・女九一、寺社方男三・女二。


入谷村
いりたにむら

[現在地名]八尾町入谷

上仁歩かみにんぶ村の南、仁歩川左岸にある。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では上仁歩村の一町ほど南にある枝村新田としてみえ、高二七石。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高二五石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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