宿村
しゆくむら
[現在地名]座間市座間・座間一―二丁目・緑ヶ丘・相武台一―四丁目・相模が丘一―四丁目
相模川の東にあり、中央を鳩川が流れ、平塚道・八王子道が通る。座間郷九ヵ村の本郷で、東は栗原村・入谷村、南は四谷村、西は新田宿村、北は新戸村(現相模原市)に接し、入谷村とは複雑に入組んでいる。正保国絵図には「座間」とあるが、寛文四年(一六六四)の久世広之領知目録(県史四)や元禄国絵図では「座間宿村」と「座間入谷村」に分れる。小名に上宿・中宿・下宿・河原宿・長宿などがある。
「続日本紀」宝亀二年(七七一)一〇月二七日条に「相模国夷参駅」、「和名抄」の伊参郷の地に比定される。元徳二年(一三三〇)六月九日長井高秀により「座間郷内長松寺」が建長寺安首座禅師に預け置かれ(「長井高秀書状」県史二)、応永三年(一三九六)一二月一七日に関東公方足利氏満から長松寺に「座間郷内田畠在□」が寄進されている(「関東公方足利氏満寄進状写」相模原市長松寺文書)。
宿村
しゆくむら
[現在地名]龍野市神岡町東觜崎
島田村の北に位置し、西は揖保川を挟んで觜崎村(現新宮町)。揖東郡に属する。郷帳類には林田を冠して記されるが、觜崎宿村と通称される(末寺帳など)。中世には越部下庄に含まれたとみられ、中世以来美作道の宿駅を形成していた。元弘三年(一三三三)の「書写山行幸記」に箸崎宿とみえる(新宮町の→觜崎村)。慶長九年(一六〇四)の越部下庄宿村検地帳(東觜崎部落有文書)の後筆奥書では高四一七石余、反別は上田六町九反余・中田一〇町四反余・下田三町一反余、上畑二町二反余・中畑一反余・下畑五反余。江戸時代には初め姫路藩領であったが、元和三年(一六一七)林田藩領となり幕末に至る(「建部家系図」建部家蔵、「寛文朱印留」、旧高旧領取調帳など)。
宿村
しゆくむら
[現在地名]浦和市宿・昭和
塚本村の北に位置する。荒川の沖積平野に立地し、自然堤防が発達している。東を鴨川が流れ、西は荒川を隔てて入間郡南畑新田(現富士見市)。八貫野に持添新田がある。荒川に近い後背湿地には条里の遺構があり、宿の城(堀の内)は中世の城館跡とされる。
田園簿では高二七六石余、反別田二九町五反余・畑一七町八反余で、旗本朝岡領。慶安二年(一六四九)に当地観音寺に寺領八石が寄進されている(「寺領寄進状」観音寺文書)。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本小笠原領・同伊奈領の三給。「風土記稿」には幕府領と伊奈領の二給とあるが、旧高旧領取調帳では幕府領(二九二石余)・小笠原領(一七石余)・伊奈領(一石余)の三給で、ほかに観音寺領がある。
宿村
しゆくむら
[現在地名]押水町宿
今浜村の北にあり、内浦街道沿いに集落を形成。西は日本海に面する。かつて末森城下の宿駅として栄えたが、兵乱で衰微したため駅は今浜村に移ったと伝える(能登名跡志)。天正一二年(一五八四)前田利家が末森城の奥村永福・千秋範昌に与えた知行所付状(千秋家文書)に宿村の三七町六反余・分米一千一三〇俵余が記載されている。本宿村ともいったようで、元和五年(一六一九)の新開検地打渡状(岡部文書)に「本宿新村」の新開一町六反余・分米二五石余とある。同六年の宿村検地打渡状(同文書)によると高五一三石余、新開一四三石余。正保郷帳の高五一三石余、田方二七町五反余・畑方六町六反余、免五ツ七歩、新田高一六五石余(免三ツ一歩八厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六八九石、免五ツ六歩、新田高一石、小物成は山役三五〇目・苦竹役二三匁、鳥役四匁(出来)、網役七一匁、猟船櫂役四五匁(うち一〇目出来)、外海船櫂役八四匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。
宿村
しゆくむら
[現在地名]金沢区釜利谷町・高舟台一―二丁目
北は赤井村、氷取沢村(現磯子区)、東は金沢入江の泥亀新田村、西は坂本村、鎌倉郡上野村(現戸塚区)に接し、南は六浦社家分村・六浦平分村・六浦寺分村・鎌倉郡峠村に連なる。古くは釜利谷郷の一部。
元禄一二年(一六九九)六浦藩領。「風土記稿」は、水田よりも陸田多く水利不便で旱損ありといい、農間には薪をとり町屋村・洲崎村に持出し塩焼料として生産を助けるという。村内にも塩竈があるが生産量は少なくほとんど自用と記す。
宿村
しゆくむら
[現在地名]龍野市誉田町福田
林田川を隔てて広山村の東に位置し、南は鵤村(現太子町)。揖東郡に属し、鵤宿村とも称した。中世には鵤庄に含まれ斑鳩宿・宿村とよばれ、林田川対岸には弘山宿があった。「太平記」巻一六(新田左中将被責赤松事)によると、建武三年(一三三六)三月新田義貞軍は赤松円心の白旗城(現上郡町)を攻めるため六万余騎で斑鳩宿まで打寄せたという。戦国期には鵤庄の有力土豪として宿村の円山新兵衛尉(河内守真久)がおり、永正一三年(一五一六)の斑鳩寺(現太子町)の修造に五〇貫文を寄進、同一八年の稗田神社(現同上)の修造の際は新兵衛尉がすべてを造りあげている(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。
宿村
しゆくむら
[現在地名]伊奈町小室 志久・中央
丸山村の東に位置し、綾瀬川右岸の大宮台地上に立地する。小室郷八ヵ村の本郷で、古くは小室村と称したが、宿の字が加えられて小室宿村と改称。さらに小室が脱落して宿村と呼称するようになったという(「風土記稿」など)。中世には小室郷に含まれた。江戸時代の領主の変遷は小貝戸村に同じ。田園簿では小室村とあり、田一〇〇石余・畑九三石余。元禄郷帳に小室宿村、天保郷帳には宿村とみえる。検地は明暦二年(一六五六)に実施されたと伝える(風土記稿)。
宿村
しゆくむら
[現在地名]姫路市南駅前町
飾東郡に所属。姫路城南の外堀のすぐ南、三左衛門堀より北、豆腐町の東に位置する。天文一六年(一五四七)一二月二五日の中屋孫左衛門尉下地売券(正明寺文書)によれば、「宿村」の中屋孫左衛門尉が「高田」の二段の作職を母里氏に一貫五〇〇文で売却している。同二一年四月一一日には宿村の紺屋次郎左衛門父子が一段の作職を小河与七に一貫三〇〇文で売却した(「紺屋次郎左衛門父子連署下地売券」同文書)。
宿村
しゆくむら
[現在地名]瑞浪市釜戸町 宿
神篦村の北東、土岐川北岸段丘上にある。釜戸一一ヵ村の最も西に位置する。下街道が通り、北西に中街道が分岐する。村名は古代東山道の土岐駅があったことによるともいわれる。正保二年(一六四五)の国絵図作成時の高一〇五石(「安藤氏覚書」安藤文書)。寛文五年(一六六五)に枝郷足股村が開かれた(瑞浪市史)。享保年間(一七一六―三六)の高九六石(「馬場氏知行所村高付帳」小川文書)。元禄郷帳では旗本馬場領。幕末までに足股村を吸収。明治七年(一八七四)釜戸宿村と改称。
宿村
しゆくむら
[現在地名]東金市宿、山武郡九十九里町宿
大沼村の北に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二五二石。元和五年(一六一九)から高一三七石余が北町奉行組与力給知(「地頭所取扱村々記」小倉家文書)。正保国絵図では高二四三石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では大沼組に属し、旗本渡辺領二一三石。元禄郷帳では高二五二石余とあり、別に宿村新田(無高)が記されるが、これは現九十九里町宿にあたると思われる。
宿村
しゆくむら
[現在地名]西仙北町大沢郷宿
南は円行寺村、東は寺村、西は杉山田村、北は九升田村に接する。村の南側一帯は山地。
慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に大沢郷一二ヵ村の一村として出てくる。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)では、生駒壱岐守分として大沢筋高五六七石余、うち田方五四九石余、畑方一七石余で、雑木林や新田を記している。正保四年の出羽一国絵図でも同内容。元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡仙北郡之内生駒主殿同権之助知行高辻帳(秋田県庁蔵)では大沢宿村とある。
天保六年(一八三五)の出羽国下野国之内秋田領郷村高辻帳(秋田県庁蔵)によれば、天保三年に矢島領から秋田領になり、高九七〇石余。
宿村
しゆくむら
[現在地名]鳥栖市宿町
養父扇状地の端末近くの平地に立地する。文禄四年(一五九五)の肥前国養父郡宿村御検地帳写(基養精細録)に「宿村」とある。近世は対馬藩領。
長崎街道は田代町外町・瓜生野町へと付け替えられる明暦元年(一六五五)までは、田代町下町から西へ抜け、基肄・養父両郡境沿いに当村に通じていた。村の名は宿場の意であろう。集落の西口に門戸口という地名がある。
宿村
しゆくむら
[現在地名]御嵩町宿
中切村の南東にある。中央部を北西へ流れる可児川沿いに中街道が通る。「和名抄」可児郡駅家郷の比定地ともされ、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる東山道可児駅の所在地とする説もある。上之郷一六ヵ村の一で、元禄郷帳に宿村とみえ高二二四石余、尾張藩領。「濃州徇行記」では田一二町四反余・畑四町四反余・山六九町七反、給主の立林四〇町ほど。家数三八・人数一四〇、馬一〇。民戸は可児川筋に並ぶ。用水は可児川から引く。農間に薪を伐り出し、楮・柿・棗類も少量売出す。
宿村
しゆくむら
[現在地名]東由利町宿
高瀬川が平坦地から河谷部に移る地域にあり、東は蔵村、西は杉森村に接する。
宝暦八年(一七五八)の御領分覚書(山懐の村)に、本田五九七石九斗七升、新田二石五斗六升、家数一四五軒、人数七五七人とある。それ以前は下里村として、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)および元禄一〇年(一六九七)の国御絵図三枚之内生駒主殿知行所羽州由理郡矢島到米下村之図(県立秋田図書館蔵)に高二六四石余の村として記される。正保四年の出羽一国絵図に、ほかに下里村の内杉森村・舟木村二村が記される。
宿村
しゆくむら
[現在地名]小坂井町宿
小坂井村の北に続く東海道沿いの村。吉田宿(現豊橋市)と御油宿(現豊川市)の中間にあって、吉田藩領の西境になるのでこの地の立場茶屋が利用されて、東海道を上下する賓客は、ここで吉田藩の送迎を受けた。
村域内中島を別称院内村あるいは博士村という。「塩尻」に「院内村万歳作太夫、毎年東都に下り、正月十一日に御勘定所にして万歳を勤て金子拝領す。浅草御蔵にて勤米十五俵賜はりしといふ」とある院内は、この地とされている。文化一四年(一八一七)に寺社奉行に差出した年始万歳之事によると、当時ここから出る万歳師は、江戸下りの者一三人、遠州・三州に出かける者七人、三州ばかりを回る者八人であった。
宿村
しゆくむら
[現在地名]岡山市宿本町・三野本町・半田町・理大町・宿
三野村の北にあり、東を旭川に接する半田山東麓の村。川土手を倉敷往来が通る。対岸は中島村。枝村に三軒屋・小室がある。地名は中世山陽道が旭川を渡る三野渡の北方に発達した宿泊機能をもつ集落であったことにちなむと考えられる。近世山陽道が整備され、岡山城下を通るようになっても、渡船一艘があって(備陽記)、船渡しが行われた。寛永備前国絵図では高四五一石余。「備陽記」によると田畑二六町五反余、家数六七・人数四四八。
宿村
やどむら
[現在地名]村岡町宿
湯舟川を挟み日影村の対岸西方に位置し、集落は同川の左岸、兎和野高原の東麓に発達する。中世には菟束庄のうちで、文明八年(一四七六)六月二八日冨田朝秀は「菟速之宿之給分」の年貢米三斗を日光院(現八鹿町)に寄進している(「冨田朝秀田地寄進状」日光院文書)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「屋と村」とみえ、当地には岡田新兵衛殿・上田殿ほかが住していた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)に村名がみえ、高一三九石余。
宿村
しゆくむら
[現在地名]岡山市古都宿
藤井村の西、龍ノ口山東方に連なる低い山地南麓に位置し、山陽道が通る。中世山陽道の宿場であったと伝え、宇喜多秀家の時代に、道筋を南へ付替えたために宿場ではなくなったという(吉備温故秘録)。中尾村六社大明神(現八幡宮)の文禄四年(一五九五)の神領書上(黄薇古簡集)に「宿ノ」宗五郎とある。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の居都庄に村名があり、寛永備前国絵図では高九五九石余。
宿村
しゆくむら
[現在地名]気高町宿
土居村の南、河内川中流域西岸、坂本谷中央部の山麓に位置する。枝郷に中伊勢・上伊勢・新田がある(因幡志)。拝領高は三六五石余、本免は四ツ三分。藪役銀二匁七分が課せられ(藩史)、津田氏・伊吹氏・大場氏・山根氏・神戸氏・高浜氏・石川氏および東館家家臣藤田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数二八。
宿村
しゆくむら
[現在地名]八日市市小脇町
辻村の西、八風街道沿いに集落がある。寛永石高帳に宿村八四石余とみえる。正保二年(一六四五)の竹検地では、合せて二反余に五千本余の竹が数えあげられている(「竹検地帳」今宿文書)。寛政一三年(一八〇一)の家並人数増減指引目録(同文書)では家数は本家二六、ほかに蔵一五・小屋七・物置一・門長屋二・隠居一・座敷一・空家二・番人一、人数一〇四(男五八・女四六)。
宿村
しゆくむら
[現在地名]瑞浪市日吉町 宿
南垣外村の東にあり、中街道が東西に通る。日吉一二ヵ村の一。臼井本元禄郷帳に「日吉宿村」とみえ、高一〇七石余、尾張藩領。中山道細久手宿の助郷を勤める。「濃州徇行記」では高一三三石、田七町九反余・畑一町八反余、家数三八・人数一七六、馬五。明治五年(一八七二)の村明細帳(日吉町宿区有文書)によれば山林七ヵ所・秣場一ヵ所・井水堰三ヵ所がある。
宿村
しゆくむら
[現在地名]山手村宿
西郡村の枝村で岡谷村の東に位置。山陽道が通る。寛永備中国絵図には「山手ノ内宿」とあり、正保郷帳では西郡村の枝村として村名がみえる。「備陽記」では反別四九町八反余、家数八一・人数五五四、池一二。町並が形成されており、茶屋があった。文化年間の「岡山藩領手鑑」では高三八四石余・又高二三五石余・直高二九二石余で蔵入のみ。田四四町五反余・畑四町九反余、開方の反別一町五反余、新開方は三町二反余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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