中国,明末・清初,カトリック教会が中国で布教するに際し,中国人信徒にどこまで中国伝統の典礼を許容しうるかという点をめぐって引き起こされた論争。マテオ・リッチの死(1610)前後からイエズス会解散までの160余年にわたる大論争であった。カトリックの東洋布教に先鞭をつけたのはイエズス会であるが,軍隊式に組織されたこの会は,布教に関してはきわめて現実的な方法を採用していた。現地での排外思想をあおらぬため,大学者として権力者に接近し,現地の宗教とカトリックの教理との妥協も辞せず,活動資金を得るためには商業活動もいとわなかった。16世紀末のマカオにおけるポルトガルの対日貿易の4分の1はイエズス会の経営であったという。中国布教の先駆者であるマテオ・リッチも,中国の国情への深い洞察から,耶蘇(イエス・キリスト)は西欧の孔子と教え,信者が天や孔子,祖先の祭祀に参加することを容認し,洗礼の習慣でも中国人になじまぬものは割愛するなど寛容な態度をとり,天文,数学の知識を武器に布教の実をあげたのである。彼のこの布教態度をイエズス会士の多くは是認したが,批判の声もあった。とりわけ遅れて中国布教に参入してきたフランシスコ会,ドミニコ会等の宣教師は教理に厳格で,イエズス会の世俗的成功に反感を示し,また日本においてはデウス(神)は〈提宇子〉として通用させるなどヨーロッパ流を変えることなく布教していたこともあり,イエズス会の妥協的なあり方を教皇庁に提訴した。これをうけ1645年,インノケンティウス10世は典礼を厳禁する法令を出したが,イエズス会士は法令の取消し運動を行い,56年,アレクサンデル7世から旧法令を廃止する旨をとりつけた。
17世紀半ばすぎの康煕初年,明・清交代の動乱をのりきり,清朝の天文官としてあったアダム・シャールが死刑の判決をうけ,諸省の宣教師が教派を問わず追放されるという事件が生じた。この危機の中で広東に集合した宣教師達は,56年の法令を尊重することを確認し,典礼問題はひとまず決着をみたのである。しかし,17世紀末,東洋進出の勢力がポルトガルからフランスに交代し,ルイ14世の支持をうけたパリ外国宣教会が中国に進出するに及んで典礼問題は再燃した。アダム・シャール獄死ののち,フェルビーストが天文官の地位を奪還して名誉回復を果たし,1692年(康煕31)には天主教公認の上諭が出されるまでにいたったのであるが,93年,入国した宣教会のメグロCharles Maigrot(1652-1730)は典礼を禁止し,イエズス会士2名を解任した。
典礼問題はまたもや教皇に提訴され,(1)中国人の天,上帝はキリスト教の〈神〉〈天主〉と同じであるのか,(2)孔子は神なのか道徳的シンボルなのか,(3)祖先崇拝,鬼神崇拝は宗教性のある習慣かといった点をめぐって論争は激化した。弁明の論をはるイエズス会士は敬天の意義等に関して康煕帝の勅許をあおぎ,ことは中国皇帝の絶対性とローマ教皇の至上性の対立という様相をおびたため,教皇の特使として入国したトゥルノンCarlo Thommaso Maillard de Tournon(1668-1710)は,康煕帝の怒りにふれマカオの獄中に病死した。おって外国宣教師取締令が出され(1706),さらにイエズス会士が皇位継承問題に介入したこともあり,雍正帝は即位とともに禁教令を発するにいたった。一方,ヨーロッパにおいてもクレメンス11世が1715年に典礼の禁令を出し,ベネディクトゥス14世が典礼問題の論議を禁止(1742)するうちに,勢力を失ったイエズス会も解散させられ典礼問題は終息した。
ひっきょう典礼論議の結果は,明末以来の伝道事業をつき崩すことにほかならなかったが,この論争を通じて中国文明の存在がヨーロッパ人に知られ,その美化された中国像はボルテールらに影響を与え,大秦景教流行中国碑の発見とならんでいわゆる〈シナ〉熱をまきおこし,フランス・シナ学の端緒となったことは特筆に値する。
執筆者:森 紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国にカトリシズムを導入するに際して、主として、信者に中国の天崇拝、祖先崇拝、孔子崇拝に関する儀式をどこまで許すことができるかに関して生じた論争。最初はイエズス会士の間で生じたが、主流派はこれらの諸崇拝をcivil(徳義的)なものとみて寛容的態度をとった。後来のドミニコ会、フランシスコ会、パリ外国宣教会などの諸団体は、これらの儀礼は異端的なものであるから、信者に参加を許すのは不適であるとしてイエズス会を攻撃した。結局解決をローマ当局に求めることになり、教皇クレメンス11世はドミニコ会などの主張をいれて、1704年中国典礼への信者の参加を禁止する勅書を出し、この勅書を励行させるために使節を中国に派遣した。康煕(こうき)帝は、ローマ側のこの決定は自国の礼教に対する教皇の干渉であると考え、二組の使節をローマに派遣して、中国の典礼が迷信的なものではないことを説明させようとした。しかしクレメンス11世は14年エクス・イルラ・ディエとよぶ教皇令を発布して、1704年の勅書の主旨を守らない司祭を破門することを宣した。康煕帝は対抗措置として「紅票」をヨーロッパの各方面に送り、自己の見解を徹底させようとした。ローマ側も第二使節を派遣して事態を収拾しようとしたが、ローマ側の意図を皇帝に理解させることができず、1723年雍正(ようせい)帝はキリスト教の布教を全面的に禁止した。ローマ側も42年典礼問題に関して今後いっさい論及することを禁止した。
[矢澤利彦]
『矢澤利彦著『中国とキリスト教』(1972・近藤出版社)』
中国に布教するカトリック諸会派間の,教習慣と中国の礼俗をどの点まで妥協させうるかということに関する論争。イエズス会は,信徒に対して孔子の崇拝や祖先の祭祀を禁止せず,また中国人がおかしく思うような儀式,例えば洗礼の際に司祭が女性の膚に塗油することは行わなかった。しかし後から中国にきたフランチェスコ修道会,ドミニコ修道会,パリ海外伝道会などは,イエズス会のような布教方法は神への冒涜(ぼうとく)であるとして攻撃,その非をローマ教皇に訴えたので,論争は教皇庁にまで波及した。結局,教皇はイエズス会式の布教を非とし,逆に時の中国皇帝康熙(こうき)帝は,イエズス会式の布教をしない宣教師の入国を拒否。次の雍正(ようせい)帝は,キリスト教の布教を全面的に禁止するに至った(1724年)。
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…イエズス会は,中国の伝統的慣習を受容する布教方針をとり,それは他教団との意見対立をもたらした。やがて〈典礼問題〉を契機として,1706年(康熙45)以降,布教は禁止され,会士も追放された。その後,19世紀半ばまで禁圧された教団は,1842年(道光22)に再び活動を認められ,江蘇,河北,安徽を中心に拡大した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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