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兼明親王 かねあきらしんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

兼明親王
かねあきらしんのう

[生]延喜14(914).京都
[没]永延1(987).9.26. 京都
醍醐天皇皇子。母は参議藤原菅根の娘淑姫。延喜 21 (921) 年源朝臣の姓を賜わり,天禄2 (971) 年には左大臣となり,皇太子傅,蔵人所別当をも兼ねたが,関白藤原兼通にうとまれ,円融天皇の詔で親王となり二品に叙され,次いで中務卿一品となった。寛和2 (986) 年辞任,翌年没した。親王は山城葛野郡に観音寺 (のちに施無畏寺と改称) を建立,また嵯峨小倉に別業雄蔵殿を営み退居しようとしたが,兼通にはばまれて志を得なかった。小倉親王,前中書王 (中務卿たる皇族) とも呼ばれ,後中書王具平親王とともに文才をうたわれ,書にも巧みであった。『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその詩文がみえる。

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デジタル大辞泉の解説

かねあきら‐しんのう〔‐シンワウ〕【兼明親王】

[914~987]醍醐天皇の皇子。源姓を名のり、左大臣となったが、関白藤原兼通にうとまれて辞任、嵯峨(さが)に引退。学問・詩歌にすぐれ、作品は本朝文粋和漢朗詠集に収載。著「池亭記」。小倉親王。前中書王。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

兼明親王 かねあきらしんのう

914-987 平安時代中期,醍醐(だいご)天皇の皇子。
延喜(えんぎ)14年生まれ。母は藤原淑姫(よしひめ)。臣籍にはいって源姓をあたえられ,大納言をへて天禄(てんろく)2年左大臣にすすむ。貞元(じょうげん)2年従兄の藤原頼忠を左大臣にしようとした関白藤原兼通の策謀により親王とされ,二品(にほん)中務卿(なかつかさきょう)におとされた。詩文「菟裘賦(ときゅうのふ)」をのこす。永延元年9月26日死去。74歳。字(あざな)は謙光。通称は小倉親王,前中書王。

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朝日日本歴史人物事典の解説

兼明親王

没年:永延1.9.26(987.10.21)
生年:延喜14(914)
平安前期の皇族で公卿。御子左,前中書王と称す。醍醐天皇の皇子で母は参議藤原菅根の娘更衣淑姫。7歳のとき源姓を賜り臣籍に下った。大納言のときに起きた安和の変(969)で同年齢の異母兄左大臣源高明が左遷された際,一時,昇殿を止められたが,天禄2(971)年,右大臣をとび越えて左大臣に昇進した。左大臣にあること7年,勅命により,ふたたび親王に戻され,二品中務卿におとされた。この措置は関白藤原兼通が右大臣であった頼忠を関白にするために画策して円融天皇を動かしたとみられる。このときの悲憤を吐露したのが「【G7EDF裘賦/ときゆうのふ】」(『本朝文粋』所収)。のち嵯峨の地に隠棲し,大井川の畔に雄蔵(小倉)殿を営み文雅な余生を送った。この地の風光明媚を詠じた漢詩は,46歳のときの作「池亭記」とともに彼の漢詩人としての才能をよく伝えている。また藤原佐理,行成と肩を並べる能書家であり,『後撰和歌集』を書写したというが(『栄花物語』),現存しない。

(朧谷寿)

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世界大百科事典 第2版の解説

かねあきらしんのう【兼明親王】

914‐987(延喜14‐永延1)
醍醐天皇の皇子。母は更衣淑姫(藤原菅根の女)。はじめ源氏となり,932年(承平2)従四位上で出身の後,累進して971年(天禄2)左大臣となったが,関白兼通の謀計で977年(貞元2)親王となって左大臣をやめ,その年中務卿となる。大井川畔の小倉に隠棲。親王は文学にすぐれ,前中書王と称せられた。執政者の専横を慨した《菟裘賦》や,《池亭記》が有名。【黒板 伸夫】

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大辞林 第三版の解説

かねあきらしんのう【兼明親王】

914~987) 平安中期の政治家・文人。醍醐天皇の皇子。小倉親王・前中書王と称される。左大臣に至るが、藤原兼通に讒ざんされ、嵯峨小倉に隠遁いんとん。詩文・書に長じ、「本朝文粋」「和漢朗詠集」に詩文が残る。書に「池亭記」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

兼明親王
かねあきらしんのう
(914―987)

醍醐(だいご)天皇皇子。母は参議藤原菅根(すがね)の女(むすめ)淑姫(としひめ)。920年(延喜20)源姓を賜り御子左(みこひだり)を号した。のちに中務卿(なかつかさきょう)となったので、後中書王たる具平(ともひら)親王に対比して前中書王と称される。公卿(くぎょう)として昇進し、971年(天禄2)左大臣となったが、関白藤原兼通(かねみち)の従兄(いとこ)頼忠(よりただ)を左大臣にしようとする計画により兼明疾(しつ)ありとされ、977年(貞元2)親王二品(にほん)に復し、中務卿を帯びることになった(のち一品に進む)。博学多才で文をよくし、書にも優れていた。『菟裘賦(ときゅうふ)』をつくり、満たされない思いを寓(ぐう)した。ほかに『池亭記(ちていき)』があり、詩文は『本朝文粋(もんずい)』『和漢朗詠集』に収める。[森田 悌]

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世界大百科事典内の兼明親王の言及

【池亭記】より

…源通親の《久我草堂記(こがそうどうき)》や鴨長明の《方丈記》に影響を与えた。なお,同名の漢文随筆が前中書王兼明(かねあきら)親王にもあり,959年(天徳3)成立。曲池のほとりの亭で悠々自適の生活を送ろうとする心境を語ったものである。…

【本朝文粋】より

… 巻一は賦と雑詩。兼明(かねあきら)親王《菟裘賦(ときゆうのふ)》は王朝を代表する傑作の一つ。讒(ざん)によって嵯峨亀山に隠退した憤懣(ふんまん)を直叙する怒りの文学。…

※「兼明親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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