施無畏寺(読み)セムイジ

デジタル大辞泉 「施無畏寺」の意味・読み・例文・類語

せむい‐じ〔セムヰ‐〕【施無畏寺】

和歌山県有田郡湯浅町にある真言宗御室派の寺。山号は、補陀落山。建久年間(1190~1199)、明恵創建

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精選版 日本国語大辞典 「施無畏寺」の意味・読み・例文・類語

せむい‐じセムヰ‥【施無畏寺】

  1. 和歌山県有田郡湯浅町栖原(すはら)にある真言宗御室派の寺。山号は補陀落山。寛喜三年(一二三一湯浅景基が創建。開山は明恵(高弁)。江戸初期、徳川頼宣により再興された。

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日本歴史地名大系 「施無畏寺」の解説

施無畏寺
せむいじ

[現在地名]湯浅町栖原

栖原すはらの西部白上しらかみ峰の麓にあり、湯浅湾を一望できる景勝の地。補陀落山と号し、真言宗御室派。本尊千手観音。江戸時代には真言宗古義高山こうざん(現京都市右京区)末。開基は明恵。平安後期以来当地に勢力を張っていた湯浅宗重の孫景基は、湯浅荘内の(田)・栖原・吉川よしかわ長山の四ヵ村の地頭職を分領していたが、明恵が若年の頃修行した白上峰の麓に一寺を建立して、これを明恵に寄進した。寛喜三年(一二三一)の湯浅景基寄進状(施無畏寺文書)の外題に

<資料は省略されています>

とあり、落慶供養の日が知れる。

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改訂新版 世界大百科事典 「施無畏寺」の意味・わかりやすい解説

施無畏寺 (せむいじ)

和歌山県有田郡湯浅町栖原(すはら)にある真言宗御室派の寺院。補陀洛山と号す。明恵上人を開山とする。寺は白上峰(しらがみみね)の中腹にあるが,この白上峰は1195年(建久6)のころ明恵が草庵を結んで修練を積んだ由緒のある地で,上人と同族で上人に深く帰依した湯浅景基が1231年(寛喜3)に一宇を建立して観世音菩薩像を安置し,当時栂尾の高山寺にあった上人を招いて落慶供養を営んだ。当時の境内,北は白上峰の北麓,東は井谷東峰,南は南栖原の大道を限り,西は田・栖原の海岸を含んでの周32町の内を殺生禁断の聖地と定めた。天正年間(1573-92)兵火のため諸堂宇が滅びたが,のち紀州藩主頼宣が再興し,本堂開山堂,持仏堂,薬師堂などが現存する。寺に所蔵する古文書のうち景基寄進状および高信(明恵の弟子)置文(おきぶみ)は重要文化財で,とくに前者は上人自筆の外題(げだい)と湯浅一族数十名の署判があり,同族結合に関する貴重な史料
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「施無畏寺」の意味・わかりやすい解説

施無畏寺
せむいじ

和歌山県有田(ありだ)郡湯浅(ゆあさ)町栖原(すはら)にある真言(しんごん)宗御室(おむろ)派の寺。山号は補陀落山(ふだらくさん)。本尊は千手観音(せんじゅかんのん)。1231年(寛喜3)の創建。開基は華厳(けごん)・真言の学と行を深く究めた高弁(こうべん)(明恵(みょうえ))。土地の豪族湯浅氏は高弁が修行した土地などを寄進して栄えたが、のち兵火で焼失し荒廃。江戸時代に紀州徳川家の外護(げご)を受けて旧に復したという。京都高山(こうざん)寺に次ぐ高弁の霊場。本堂、開山堂はいずれも1600年代の再建。寺宝の藤原景基作置文一巻、高信作施入状一巻は国の重要文化財。

[祖父江章子]

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世界大百科事典(旧版)内の施無畏寺の言及

【湯浅[町]】より

…湯浅氏の湯浅城跡が青木に,湯浅宗重が一族の守護神としてまつったという顕国(けんこく)神社が湯浅にある。なお高山寺の明恵(みようえ)は湯浅一族の出身で,栖原(すはら)には明恵ゆかりの施無畏(せむい)寺があり,古文書を蔵する。白上峰や湯浅湾中の苅藻(かるも)島は明恵修行の地として知られる。…

※「施無畏寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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