前田利家(読み)まえだとしいえ

精選版 日本国語大辞典 「前田利家」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐としいえ【前田利家】

安土桃山時代の武将。加賀藩前田家の祖。幼名犬千代、のち羽柴筑前守・加賀大納言などと称した。初め信長に従って桶狭間の戦いなどに武功を挙げた。賤ケ岳の戦いでは柴田勝家側から秀吉側に転じ、戦後、金沢城に拠り、北陸を平定。五大老の一人となり秀吉の死後は秀頼を補佐。天文七~慶長四年(一五三八‐九九

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デジタル大辞泉 「前田利家」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐としいえ〔まへだとしいへ〕【前田利家】

[1538~1599]安土桃山時代の武将。加賀藩主前田氏の祖。尾張の人。幼名、犬千代。織田信長に従い、各地で戦功をたてた。のち、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人として、秀頼の後見を託された。

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改訂新版 世界大百科事典 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家 (まえだとしいえ)
生没年:1537-99(天文6-慶長4)

安土桃山時代の武将。加賀藩始祖。犬千代,孫四郎,又左衛門尉,筑前守,加賀大納言と称する。尾張愛知郡荒子に生まれ織田信長に近侍し,1551年(天文20)以来諸征服戦に従軍,59年(永禄2)信長の勘気を受けて蟄居(ちつきよ)したが69年許されて家督を継いだ。赤母衣衆となり,75年(天正3)越前平定後武主(ものぬし)柴田勝家のもとで佐々成政,不破光治と府中三人衆として施政に当たり,81年能登に転封,翌年本能寺の変の後,越中の前線から撤退して石動山天平寺の僧徒や温井,三宅等の反乱を討伐し,翌年賤ヶ岳の戦に従軍したが豊臣秀吉に下った。柴田氏の滅亡後,加賀金沢城主となって越前北ノ庄の丹羽長秀とともに北陸を制する大大名となった。そして85年秀吉の越中征伐後,長男利勝(利長)が越中3郡を領し,ここに北陸の雄藩としての基礎を定めた。

 豊臣氏と前田氏とは織田部将時代の同輩であり,秀吉の室北政所(高台院)と利家の室芳春院とは幼なじみ,しかも三女まあは秀吉の妾,四女豪と六女菊は秀吉の養女という親族同様の関係にあった。秀吉の信頼はとくにあつく,86年筑前守の受領を許され,87年の九州征伐では京都・大坂の守護,90年の小田原征伐には北関東から進撃して奥羽征伐にも従い,92年(文禄1)の文禄の役では名護屋に駐留して徳川家康とともに秀吉の朝鮮渡海を諫止,93年秀頼誕生の後には傅(もり)役に任ぜられ,96年(慶長1)秀吉・秀頼父子の参内に供奉して従二位権大納言に叙任され,豊臣氏に対し重大な責務を負うこととなった。このころ秀吉は前田邸に臨み,また利長は98年従三位権中納言に叙任,秀頼擁護の態勢が固められ,利家は五大老の一員となった。同年秀吉が没すると利家は秀頼とともに大坂城に入って後見し,家康と比肩しうる重鎮として五大老,五奉行の間で重視された。家康と相互に訪問して政局の緩和に努めたが,病に冒され,99年閏3月3日大坂城内で没した。利家の死によって政局は急速に緊迫化し,石田三成の失脚,利長の加賀帰国,関ヶ原の戦の勃発へと展開した。
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朝日日本歴史人物事典 「前田利家」の解説

前田利家

没年:慶長4.閏3.3(1599.4.27)
生年:天文7(1538)
安土桃山時代の武将。利昌の4男,母は竹野氏。尾張国荒子村(名古屋市中川区)生まれ。幼名犬千代。孫四郎のち又左衛門尉。14歳で織田信長の近習となり,19歳のときの合戦では,顔に矢が刺さったまま相手を槍で倒したという。天正3(1575)年信長から越前(福井県)を与えられた柴田勝家の監視役として佐々成政,不破光治と共に同国府中(武生市)に配され,同9年には能登(石川県)一国をあてがわれて国持大名となった。本能寺の変後相対立した柴田勝家,羽柴(豊臣)秀吉とは双方ともに親密な間柄で,賤ケ岳の戦では当初勝家に加担したが,途中で秀吉に降伏した。勝家の自殺後,加賀(石川県)侵攻の先鋒を務めた功で加賀北半を加増され,さらに越中(富山県)の成政を下した功で,同13年嫡子利勝が越中3郡を得,加賀,越中,能登3カ国にわたるのちの加賀藩領の原形ができた。翌年羽柴姓と秀吉の旧官名筑前守を譲られており,秀吉の信頼厚かったことがわかる。ちなみに3女摩阿(加賀殿)は秀吉の側室として聚楽第天守に住み,4女豪は幼時より秀吉の養女となって寵愛された。 天正15年の九州出兵,同18年の関東・奥羽平定に大軍を出して秀吉の全国統一に参加。文禄1(1592)年からの朝鮮侵略では名護屋(佐賀県鎮西町)に駐留し,漢城(ソウル)陥落を聞いて渡海しようとする秀吉を徳川家康と共に諫止したこともある。同4年の豊臣秀次の謀反後,秀吉の次男秀頼の守り役となり,翌慶長1(1596)年には従二位権大納言に進んだ。五大老のひとりとして秀吉政権を支え,秀吉没後の同4年1月,秀吉の制法に背いた家康を追及する先頭に立ったがすぐ和解。その直後妻まつに遺書を代筆させ,まもなく大坂で没,遺言に従い金沢の野田山に葬られた。若いときは派手好みで喧嘩早い「かぶき者」で知られ,老いても流行の細腰の袴をきらい太くしたという。また常に具足櫃にそろばんを入れていた計算上手で,伊達政宗らに金子を融資するなど経済的才覚もあった。<参考文献>岩沢愿彦『前田利家』,『加賀藩史料』1編

(河村昭一)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家
まえだとしいえ
(1538―1599)

安土(あづち)桃山時代の武将、加賀藩初代藩主。従(じゅ)二位、権大納言(ごんだいなごん)。尾張(おわり)国(愛知県)荒子城主前田利春(としはる)の次男。幼名犬千代。1551年(天文20)織田信長に仕え、元服して孫四郎、のち又左衛門(またざえもん)と改めた。青年のころは血気盛んで武勇を誇り、「槍(やり)の又左衛門」と異名をとった。そのため信長の怒りに触れ、放禄(ほうろく)されたこともあるが、美濃(みの)の斎藤征伐、桶狭間(おけはざま)、姉川(あねがわ)、長篠(ながしの)など、信長の主要な戦争に従軍して功をあげ、2450貫の荒子城主から近江(おうみ)国(滋賀県)長浜、越前(えちぜん)国(福井県)府中に進出、さらに81年(天正9)には能登(のと)国(石川県)七尾(ななお)城主となり、能登一国23万石余を領有した。その翌年、本能寺の変で信長が急死し、羽柴(はしば)秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)との抗戦となるや、巧みに対処して秀吉につき、柴田氏の滅亡後、加賀国2郡を加増されて尾山城(金沢市)に移った。84年小牧の役には、徳川家康に応じて越中(えっちゅう)国(富山県)から進寇(しんこう)した佐々成政(さっさなりまさ)を末守城で破り、越中4郡のうち3郡を加増された。90年(天正18)の小田原征伐に参戦、奥羽検地に参与し、文禄(ぶんろく)の役には肥前国(佐賀県)名護屋(なごや)に在陣した。のち五大老の一人として秀頼(ひでより)の哺育(ほいく)に任じたが、98年(慶長3)秀吉の病死後、台頭する家康と反家康派の間にあって両者の協調に努めた。しかし翌年閏(うるう)3月3日病死。晩年は老練、温厚で人望厚く、領内では優れた治績を残し、加賀藩の基礎をつくった。

[若林喜三郎]

『岩沢愿彦著『前田利家』(1966・吉川弘文館)』


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百科事典マイペディア 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家【まえだとしいえ】

安土桃山時代の武将。通称犬千代。加賀(金沢)藩主前田家の祖。織田信長に仕え,桶狭間の戦をはじめ多くの戦いに功をたて,1575年越前府中城主となる。賤ヶ岳の戦では柴田勝家を離れ豊臣秀吉につき,加増され金沢に移る。五大老の一人。秀吉死後は秀頼を補佐。なお子の利長は関ヶ原の戦で東軍に属し,所領を安堵(あんど)された。
→関連項目尾山加賀蒔絵金沢藩徳川家康府中

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家
まえだとしいえ

[生]天文7(1538).尾張
[没]慶長4(1599).閏3.3. 大坂
安土桃山時代の武将。加賀藩前田家の祖。利昌の子。幼名は犬千代,幼少から織田信長に仕え,永禄 12 (1569) 年信長の命で兄利久に代って前田家を継いだ。元亀1 (70) 年の朝倉征伐,さらに姉川の合戦,長篠の戦いなどに従軍して功をあげた。信長亡きあと,柴田勝家と豊臣秀吉が天正 11 (83) 年賤ヶ岳で戦った際,利家は当初勝家についていたが,裏切って秀吉に従った。同 13年秀吉が越中で佐々成政を倒してからは越中の3郡を与えられ,その信任は厚かった。同 18年参議となり徳川家康,上杉景勝らと五大老の一人として,また秀吉没後は秀頼の後見として徳川氏との調整にあたった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「前田利家」の解説

前田利家
まえだとしいえ

1538~99.閏3.3

織豊期の武将。利昌の子。尾張国愛知郡荒子村の土豪の家に生まれる。はじめ織田信長に仕え,戦功により赤母衣(あかほろ)衆に加えられる。1575年(天正3)越前国を与えられた柴田勝家の目付役として同国府中に赴き,81年8月能登一国を与えられ大名格となる。本能寺の変後は83年の賤ケ岳(しずがたけ)の戦で豊臣秀吉方につき,加賀国北半を与えられ,85年には越中国にも領地をえた。秀吉との関係は尾張以来の親密なもので,秀吉の全国統一後は豊臣政権を支える最有力大名の地位にあった。98年(慶長3)8月の秀吉死後は,遺児秀頼の後見役として大坂城に入り,徳川家康と以後の体制作りに努めたが翌年病没。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前田利家」の解説

前田利家 まえだ-としいえ

1538-1599 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)7年生まれ。前田利昌(としまさ)の4男。加賀金沢藩主前田家の祖。はじめ織田信長につかえる。天正(てんしょう)11年賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀吉について加賀2郡をあたえられ,居城を七尾から金沢にうつした。慶長2年権大納言。秀吉治下では五大老のひとり。民政・理財の才もあり,茶の湯・和歌にも長じた。慶長4年閏(うるう)3月3日死去。62歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。幼名は犬千代。通称は孫四郎,又左衛門尉。
【格言など】武道ばかりを本とする事あるまじく候(子の利長にのこした訓戒)

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旺文社日本史事典 三訂版 「前田利家」の解説

前田利家
まえだとしいえ

1538〜99
安土桃山時代の武将。加賀(石川県)藩主前田家の祖
幼名犬千代,のち孫四郎・又左衛門 (またざえもん) と称した。尾張(愛知県)の人。織田信長に仕え,桶狭間 (おけはざま) ・姉川・長篠の戦いなどに功をたて,1583年賤ケ岳 (しずがたけ) の戦い後,豊臣秀吉に仕え,加賀の尾山城(金沢城)に移った。五大老の一人として,秀吉の死後秀頼の守り役となり,徳川家康と並び大事を決した。

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367日誕生日大事典 「前田利家」の解説

前田利家 (まえだとしいえ)

生年月日:1538年12月25日
安土桃山時代の大名
1599年没

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世界大百科事典(旧版)内の前田利家の言及

【後詰】より

…安土桃山時代の用語を採録する《日葡辞書》では同義語として〈うしろまき〉を掲げ敵を背後から包囲すること,または攻めることと解釈している。1584年(天正12)9月,前田利家が能登末森城を救援し,優勢な佐々成政の軍を撃破した戦闘などは成功した事例として名高い。【岩沢 愿彦】。…

【越中国】より

…成政は上杉景勝方と抗争をくりかえし,翌年6月には上杉方の越中侵攻の拠点魚津城を陥落させたが,本能寺の変のため成政は富山城に入って上杉方と抗争を続け,越中の制圧にあたった。83年越前北庄の柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉は成政の越中支配を認めたが,成政は秀吉と同心する前田利家と対立したため,83年秀吉に攻められてこれに降伏,所領は新川郡のみとされ,さらに翌々年肥後に転封された。婦負・射水・礪波の3郡は前田利勝(利長)に,新川郡は直轄地として利家に預けられ,前田氏の支配が始まった。…

【五大老】より

…豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。1595年(文禄4)の起請文前書によれば,家康は坂東の法度置目公事篇の儀を,輝元と小早川隆景とは坂西のそれを委任されているし,秀吉の遺言状によれば利家は秀吉の盟友であって豊臣秀頼の傅(ふ),宇喜多秀家は豊臣氏と一体であった。…

【関ヶ原の戦】より


[原因]
 1598年8月の豊臣秀吉死後の政権は,家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行によって運営されることとなった。秀吉の遺言によれば,家康,前田利家,毛利輝元,上杉景勝,宇喜多秀家の五大老が秀頼を後見し,〈御法度,御置目〉などの天下の政治は長束正家,石田三成,増田長盛,浅野長政,前田玄以の五奉行が合議によって推進し,太閤蔵入地その他の中央政権を支える財政の〈算用〉は,家康,利家の2人が総攬することになっていた。このことは,8月から9月にかけて五大老,五奉行の間で交換された多数の誓書によって確認され,秀吉の死で緊急の課題となった朝鮮からの撤兵も,この体制によって実施された。…

【所口】より

…七尾ともいう。1581年(天正9)畠山氏の七尾城に入った前田利家は,翌年七尾湾に面する所口村に小丸山城を計画,旧七尾城下の町人を移して新城下町を経営しようとしたが,83年金沢城へ移ったことから中止された。しかしこの地の軍事的・経済的重要性から町づくりは続けられ,元和期(1615‐24)には町奉行が置かれ所口町のほかに能登全域の治安と流通をも支配した。…

【能登国】より

…こののち越後上杉氏の占領支配がはかられたが,織田信長と結んで能登奪回に執念を燃やす畠山旧臣の長連竜(つらたつ)の攻略と上杉方に帰服していた温井景隆(かげたか),三宅長盛らの離反にあい,80年ごろに至り挫折した。【東四柳 史明】
【近世】
 1581年能登国は織田信長の勢力下に入り,鹿島郡の半分が長連竜に給され,残りは信長の部将菅屋長頼,福冨行清,前田利家が支配した。同年8月,信長は前田利家に能登一国を知行させ,長氏はその与力となった。…

※「前田利家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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