小説家。山口県生れ。旧制山口中学(現,山口高等学校)中退。中学のころから文学に親しみ,とくに徳冨蘆花にひかれる。中退後,人生上の煩悶(はんもん)から宗教に,中でも浄土真宗に心を寄せ,近角常観(ちかずみじようかん)の教えを受けた。1918年に藤本静子と結婚したが,彼女の婚前の男関係を知って傷つき,悶々の日を送る。24年に書記として就職した山口市の中村女学校の裁縫助手小川チトセと恋に陥り,翌25年東京へ駆落ち。26年雑誌《不同調》の記者となり,葛西善蔵らに近づく。28年《業苦(ごうく)》《崖の下》を発表して宇野浩二の絶賛を博し,文壇から注目される。他に《生別離(せいべつり)》(1929),《秋立つまで》(1930),《途上》(1932),《神前結婚》(1933)などの優れた作品がある。いずれも,捨ててきた家や子どもに対する自責の念を吐露した私小説(わたくししようせつ)である。告白のきびしさのゆえに,私小説の極北を示した作家といわれている。
執筆者:大森 澄雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
小説家。明治30年12月15日、山口県に生まれる。中学中退。家業の農業を手伝うかたわら、講義録で勉強。そのころから人生問題で悩み宗教に救いを求めて、念仏行者近角常観(ちかずみじょうかん)の教えに傾倒。1918年(大正7)藤本静子と結婚し一子をもうけたが、25年山口市の私立中村女学校の裁縫助手小川チトセと東京へ駆け落ちし、翌年静子と離婚した。同年雑誌『不同調』の記者となり、28年(昭和3)同誌に、駆け落ちに絡む自責の念を告白した『業苦(ごうく)』『崖(がけ)の下』を発表して文壇に注目されたが、作家としての地位を確立できたのは、32年『中央公論』に『途上』を発表してからである。翌昭和8年11月30日、結核性腹膜炎のために死亡。近角常観や、若いころに読み親しんだ徳冨蘆花(とくとみろか)、『不同調』時代に知遇を得た葛西善蔵(かさいぜんぞう)らの影響を強く受けている嘉村の作品は、ほとんどが告白態度の厳しい私小説である。
[大森澄雄]
『『嘉村礒多全集』全2巻(1972・桜楓社)』▽『太田静一著『嘉村礒多 その生涯と文学』(1971・弥生書房)』
昭和期の小説家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…小林秀雄や後の中村光夫《風俗小説論》(1950)(風俗小説)の批判にもかかわらず私小説は盛んに書かれていたのである。その主なものは志賀直哉の系統では滝井孝作《無限抱擁》(1921‐24),尾崎一雄《二月の蜜蜂》(1926),《虫のいろいろ》(1948)など,葛西善蔵の系統では牧野信一《父を売る子》(1924),嘉村礒多(かむらいそた)《途上》(1932)などがある。そして前者を調和型心境小説,後者を破滅型私小説に分ける解釈が後に伊藤整《小説の方法》(1948)と平野謙〈私小説の二律背反〉(1951)によって完成,定着していった。…
※「嘉村礒多」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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