嘉村礒多(読み)カムライソタ

デジタル大辞泉 「嘉村礒多」の意味・読み・例文・類語

かむら‐いそた【嘉村礒多】

[1897~1933]小説家。山口の生まれ。苦渋に満ちた生活を送る自己の姿を赤裸々に描いた典型的な私小説作家。著「業苦」「崖の下」「秋立つまで」「途上」など。

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精選版 日本国語大辞典 「嘉村礒多」の意味・読み・例文・類語

かむら‐いそた【嘉村礒多】

  1. 小説家。山口県出身。きびしい倫理観を基調に、おのれの生活を暴露して独特の私小説世界を示した。著「業苦」「崖の下」「途上」など。明治三〇~昭和八年(一八九七‐一九三三

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改訂新版 世界大百科事典 「嘉村礒多」の意味・わかりやすい解説

嘉村礒多 (かむらいそた)
生没年:1897-1933(明治30-昭和8)

小説家。山口県生れ。旧制山口中学(現,山口高等学校)中退。中学のころから文学に親しみ,とくに徳冨蘆花にひかれる。中退後,人生上の煩悶(はんもん)から宗教に,中でも浄土真宗に心を寄せ,近角常観(ちかずみじようかん)の教えを受けた。1918年に藤本静子と結婚したが,彼女の婚前の男関係を知って傷つき,悶々の日を送る。24年に書記として就職した山口市の中村女学校の裁縫助手小川チトセと恋に陥り,翌25年東京へ駆落ち。26年雑誌不同調》の記者となり,葛西善蔵らに近づく。28年《業苦(ごうく)》《崖の下》を発表して宇野浩二の絶賛を博し,文壇から注目される。他に《生別離(せいべつり)》(1929),《秋立つまで》(1930),《途上》(1932),《神前結婚》(1933)などの優れた作品がある。いずれも,捨ててきた家や子どもに対する自責の念を吐露した私小説(わたくししようせつ)である。告白のきびしさのゆえに,私小説の極北を示した作家といわれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「嘉村礒多」の意味・わかりやすい解説

嘉村礒多
かむらいそた
(1897―1933)

小説家。明治30年12月15日、山口県に生まれる。中学中退。家業の農業を手伝うかたわら、講義録で勉強。そのころから人生問題で悩み宗教に救いを求めて、念仏行者近角常観(ちかずみじょうかん)の教えに傾倒。1918年(大正7)藤本静子と結婚し一子をもうけたが、25年山口市の私立中村女学校の裁縫助手小川チトセと東京へ駆け落ちし、翌年静子と離婚した。同年雑誌『不同調』の記者となり、28年(昭和3)同誌に、駆け落ちに絡む自責の念を告白した『業苦(ごうく)』『崖(がけ)の下』を発表して文壇に注目されたが、作家としての地位を確立できたのは、32年『中央公論』に『途上』を発表してからである。翌昭和8年11月30日、結核性腹膜炎のために死亡。近角常観や、若いころに読み親しんだ徳冨蘆花(とくとみろか)、『不同調』時代に知遇を得た葛西善蔵(かさいぜんぞう)らの影響を強く受けている嘉村の作品は、ほとんどが告白態度の厳しい私小説である。

大森澄雄]

『『嘉村礒多全集』全2巻(1972・桜楓社)』『太田静一著『嘉村礒多 その生涯と文学』(1971・弥生書房)』

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20世紀日本人名事典 「嘉村礒多」の解説

嘉村 礒多
カムラ イソタ

昭和期の小説家



生年
明治30(1897)年12月15日

没年
昭和8(1933)年11月30日

出生地
山口県吉敷郡仁保村(現・山口市仁保)

学歴〔年〕
山口中(現・山口高)〔大正3年〕中退

経歴
少年時代から文学書を多く読み、中学中退後も半農生活をしながら独学する。大正7年結婚するがまもなく妻との不和に悩むようになる。13年山口市の私立中村女学校の書記となり、生徒の求道会の指導にあたったが、14年妻子をすてて上京し、帝国酒醬油新報社に勤務。15年「不同調」の記者となる。昭和3年「業苦」「崖の下」を発表して文壇に注目され、4年「近代生活」同人となり、5年「崖の下」を刊行。私小説の極北を示す短篇作家として、以後「途上」「神前結婚」などを発表した。「嘉村礒多全集」(全2巻、桜楓社再刊)がある。

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百科事典マイペディア 「嘉村礒多」の意味・わかりやすい解説

嘉村礒多【かむらいそた】

小説家。山口県生れ。中村武羅夫の知遇を得て雑誌《不同調》の記者となり,葛西善蔵に師事。1928年,妻子を捨て,愛人と駆落ちした自身の経験,自責の念を記した《業苦》《崖の下》を発表して文壇に認められた。苛烈な精神をもった特異な私小説作家。《途上》《神前結婚》のほか全集がある。
→関連項目新興芸術派福田恆存

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「嘉村礒多」の意味・わかりやすい解説

嘉村礒多
かむらいそた

[生]1897.12.15. 山口,仁保
[没]1933.11.30. 東京
小説家。 1911年県立山口中学校に入ったが4年で中退,家で農業に従事しながらキリスト教に親しみ漢籍を学んだ。 18年結婚したがまもなく妻と不和となり翌年上京,中村武羅夫の庇護を受けて『不同調』『近代生活』に参加,妻子を捨て愛人と出奔上京した頃の自分の生活を懺悔の思いで綴った『業苦』 (1928) ,その後失職してあばら家に閉塞した生活を描く『崖の下』 (28) で宇野浩二の激賞を受けた。さらに 32年,中学入学から上京後愛人と孤独で不安な同棲を続けるまでの半生を告白した『途上』で作家としての地位をようやく確立したが,精神上,肉体上の無理がたたって翌年病没した。自己の醜悪を誇張して描く自虐的傾向が強く,私小説の本質を継いだ最後の作家といわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「嘉村礒多」の解説

嘉村礒多 かむら-いそた

1897-1933 昭和時代前期の小説家。
明治30年12月15日生まれ。人生や家庭の問題になやみ,僧近角常観(ちかずみ-じょうかん)らの教えをうける。大正14年妻子をすてて上京。雑誌「不同調」の記者となり,昭和3年同誌に「業苦」「崖の下」を発表。ついで「途上」「神前結婚」など,恥辱(ちじょく)や罪業の意識をもって一連の私小説をかいた。昭和8年11月30日死去。37歳。山口県出身。

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367日誕生日大事典 「嘉村礒多」の解説

嘉村 礒多 (かむら いそた)

生年月日:1897年12月15日
昭和時代の小説家
1933年没

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世界大百科事典(旧版)内の嘉村礒多の言及

【私小説】より

…小林秀雄や後の中村光夫《風俗小説論》(1950)(風俗小説)の批判にもかかわらず私小説は盛んに書かれていたのである。その主なものは志賀直哉の系統では滝井孝作《無限抱擁》(1921‐24),尾崎一雄《二月の蜜蜂》(1926),《虫のいろいろ》(1948)など,葛西善蔵の系統では牧野信一《父を売る子》(1924),嘉村礒多(かむらいそた)《途上》(1932)などがある。そして前者を調和型心境小説,後者を破滅型私小説に分ける解釈が後に伊藤整《小説の方法》(1948)と平野謙〈私小説の二律背反〉(1951)によって完成,定着していった。…

※「嘉村礒多」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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