日本歴史地名大系 「勝沼氏館跡」の解説 勝沼氏館跡かつぬましやかたあと 山梨県:東山梨郡勝沼町勝沼村勝沼氏館跡[現在地名]勝沼町勝沼 御所勝沼の南境を西流する日(ひ)川右岸の河岸段丘上にある戦国期の館跡。北側には甲州道中が通り、甲府盆地東部と郡内(ぐんない)方面を結ぶ結節点にあたり交通の要衝でもある。当館跡は内郭部と外郭部によって構成され、その周辺には街路・町割が展開している。内郭部は東西九〇メートル・南北六〇メートルの規模を有する。南から西側は比高二五メートルの日川の急崖に面し、東および北側には内堀がめぐらされている。内堀の外側一帯には外郭部が設けられ、これを外堀が取巻く。外堀の外側にも郭はさらに広がる様相をみせ、全体の規模は大きい。館跡の東方には鳥居平(とりいだいら)があり、この中腹付近に金毘羅(こんぴら)神社と館の鬼門除けの伝承をもつ雀宮(すずのみや)神社が鎮座している。北方には小佐手(おさで)小路が真っすぐに延び、先端には勝沼氏の菩提寺であった泉勝(せんしよう)院がある。この付近には加賀屋敷(かがやしき)・奥屋敷(おくやしき)の地名が残る。小佐手小路の西側には筋違(すじちがい)小路が北西に走り、その間には御蔵道(おくらみち)と御蔵屋敷(おくらやしき)の地名がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
国指定史跡ガイド 「勝沼氏館跡」の解説 かつぬましやかたあと【勝沼氏館跡】 山梨県甲州市勝沼町にある戦国時代の館跡。勝沼氏は、武田信玄の父・信虎の弟である信友に始まる武田氏の親族衆で、1560年(永禄3)に信玄によって滅ぼされた。旧勝沼町域を流れる日川右岸の急崖、標高418mの河岸段丘上に位置し、対岸に甲州道中(慶長以前の甲州街道)、館のすぐ西を鎌倉脇往還が走る交通の要衝にあたり、武蔵・相模方面への備えの役割を担っていた。1973年(昭和48)から発掘調査が行われ、建物は主郭部と外郭部から構成され、主郭部は東西90m、南北60mで、北側と東側に内堀が見られ、礎石のある建物跡が23棟確認された。そのほか門跡、水溜め、溝、土塁、小鍛冶(こたんや)遺構などが検出された。燈明用と考えられる土師器(はじき)、中国産の青磁をはじめとする陶磁器、鉄砲玉などの武具、金属製農具や硯をはじめとする日用品など、幅広い遺物が出土している。1981年(昭和56)に国の史跡に指定された。2009年(平成21)の調査では、小鍛冶遺構から出土した土器に付着した金の熔融物が確認され、近接する黒川金山から運ばれた金鉱石の精錬も推測されている。JR中央本線勝沼ぶどう郷駅から車で約10分。 出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報 Sponserd by