勤評闘争(読み)きんぴょうとうそう

改訂新版 世界大百科事典 「勤評闘争」の意味・わかりやすい解説

勤評闘争 (きんぴょうとうそう)

1957年から58年にかけて,公選制から任命制に変わった教育委員会制度のもとで,教員にたいする勤務評定が強行されたのに対して,それが教職員の団結を破壊し,教育の権力統制を意図するものとして教職員組合を中心に全国的に激しく展開された反対闘争。1950年に制定された地方公務員法40条は,任命権者が職員の執務について定期的に評定を行い,その結果に応じた措置を講ずることを規定したが,教員については,勤務内容が特殊であり,その性質が勤務評定になじまないとされ,また評定の客観的基準の作成,科学的な研究や準備がなかったので,勤務評定は実施されていなかった。56年11月,愛媛県教育委員会は県財政が赤字で3割の教員の定期昇給を停止するためとして勤務評定を強行し,さらに都道府県教育長協議会の試案(1957)をモデルとして,58年から全国的に教員にたいする勤務評定の規則様式の制定が行われ,公立の学校長は所属の教員にたいする勤務評定書を教育委員会に提出することになった。当局は,法律にも定められているし,教員の人事管理の適正化,教育効果の向上がねらいであると説明した。しかし客観的には,教育の中立性確保の2法律の公布文部省による〈24の偏向教育事例〉の国会提出(ともに1954),任命制教育委員会制度による教育行政の中央集権化(1956),そして〈道徳〉の時間特設と学習指導要領の性格を〈試案〉から拘束性をもつものに変更(1958)するなど,一連の教育と教員統制の強化政策の新たな具体化であった。愛媛をはじめ,東京,和歌山,高知,京都,大阪,福岡,群馬などの都道府県で規則の制定や校長の評定書提出を阻止しようとする教職員組合が,いっせい休暇闘争をふくめて激しい反対闘争を展開し,また,総評による〈勤務評定反対・民主教育を守る国民大会〉の開催,勤務評定への日本教育学会の批判,学者・文化人の声明など,国民的な教育闘争が展開された。

 これらの反対闘争にもかかわらず,勤務評定は実施されていったが,その後も組合役員への処分等をめぐり,いわゆる勤評裁判で争われることとなった。いくつかの裁判が行われたが,代表的なものとして都教組事件がある。58年4月に休暇闘争を指令したことが,地方公務員法の争議の〈あおり行為〉にあたるとして7人が起訴されたが,69年4月最高裁判所は刑事罰の対象となる〈あおり行為〉について厳格に解釈すべきであるとして,全員に無罪を言い渡した。一方,同事件で地方公務員法に基づき停職,減給の懲戒処分(民事罰)をうけた96人が,処分の取消しを求めた行政訴訟について,77年12月最高裁判所は〈地方公務員法により争議行為は全面禁止される〉として,逆に組合側敗訴の判決を下した。また最高裁判所は,教員の勤務評定そのものの適法性について,78年11月の伊藤吉春校長事件判決でこれを認めるにいたった。このような流れのなかで,70年代後半にはほとんどの裁判が終了した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の勤評闘争の言及

【スト権奪還闘争】より

…それが一応の解決をみたのは59年12月であった。またこのころ(1957‐59)全国的規模で勤評闘争も行われた。 こうして昭和30年代の前半,公務員法,公労法の団結権,団体交渉権,争議権に関する諸規定とその運用が労使関係上,政治上の大問題となった。…

※「勤評闘争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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