千宗左(読み)センソウサ

デジタル大辞泉 「千宗左」の意味・読み・例文・類語

せん‐そうさ【千宗左】

[1619~1672]江戸前期の茶人。表千家の祖。宗旦の三男。号、江岑こうしん・逢源斎。不審庵に住み、紀州徳川家に仕えた。「江岑夏書げかき」の覚書を残す。以後、表千家宗家は代々宗左を名のる。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「千宗左」の意味・読み・例文・類語

せん‐の‐そうさ【千宗左】

  1. ( 初代 ) 茶人。江戸初期からの表千家の当主。宗旦の第三子。号は江岑(こうしん)、逢源斎など。不審庵に住み、紀州侯徳川頼宣に仕えた。著に「江岑夏書(げがき)」。慶長一八~寛文一二年(一六一三‐七二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「千宗左」の意味・わかりやすい解説

千宗左(せんのそうさ)
せんのそうさ
(1619―1672)

江戸前期の茶人。表千家・不審庵(ふしんあん)1世。初め宗受といい、のち宗左、江岑(こうしん)、逢源斎(ほうげんさい)と号す。千宗旦(そうたん)後妻の子(三男)。宗旦の奔走で1642年(寛永19)紀州徳川家の茶頭(さどう)となる。宗旦が屋敷の北に移って隠居したことから、その跡を継いだ弟宗室の系統を裏千家というのに対して、家督を継いだ宗左の系統を表千家といい、おもな茶室名をとって不審庵ともいう。江戸深川の材木商冬木家の所有に帰していた利休の辞世を、弟子で江戸千家の祖となった川上不白の斡旋(あっせん)で取り戻した。『千利休由緒書』は、紀州家から尋ねられた宗左が、千家の系譜や利休の事績などについて答えたもので、子の随流斎に書き与えた茶事の覚書『江岑夏書(げがき)』とともに貴重な文献。

[村井康彦]


千宗左(せんそうさ)
せんそうさ

千宗左

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「千宗左」の解説

千 宗左
セン ソウサ

昭和期の茶道家 表千家家元(13代目);不審庵理事長。



生年
明治34(1901)年1月27日

没年
昭和54(1979)年8月29日

出生地
京都府京都市

別名
幼名=覚次郎,号=即中斎

学歴〔年〕
京都帝国大学文学部史学科〔大正15年〕卒

経歴
表千家12代惺斎の二男。兄宗員が昭和11年に急死、続いて父・惺斎が12年に死去したため、同年家元を継いで表千家不審庵の第13代即中斎となる。不審庵は明治39年に火災で消失したため、昭和24年に(財)不審庵を設立、理事長に就任。17年に千家同門会を発足させ、弟子家である長生会、吉祥会などを緩やかに統率、独自の茶風を定着させた。また表千家代々の遺物である史料の公開につとめ、46年には「元伯宗旦文書」を公開し、続いて「即中茶記」(3巻)「表千家」などを出版した。死後の55年に長男の岑一郎が第14代を継ぎ而妙斎宗左となる。


千 宗左
セン ソウサ

明治〜昭和期の茶道家 表千家家元(12代目)。



生年
文久3年(1863年)

没年
昭和12(1937)年7月18日

出生地
京都

別名
号=惺斎,散翁

経歴
表千家11代碌々斎の長男。明治39年に焼失した不審庵を大正2年に再興した。好みの茶道具は歴代の中で最も多く、千家十職の作品の他、鎌倉彫、萩焼、膳所焼薩摩焼などにも及ぶ。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「千宗左」の解説

千宗左(4代)

没年:寛文11.10.27(1671.11.28)
生年:慶長18(1613)
江戸前期の茶人。千宗旦の3男。母は真巌宗見。幼名十三郎。宗受,宗佐ののち宗左を名乗り,以後,表千家では宗左が家元の名となった。号は江岑。また堪笑軒,逢源斎とも号した。寛永19(1642)年,紀州徳川家に茶頭として出仕し,千家の経済的基礎をつくった。正保3(1646)年,宗旦より千家の家督を譲られ不審庵を継承,のちに分立する三千家の本家となった。これが今日の表千家で平成期の14代而妙斎におよんでいる。宗旦没後,宗旦時代の伝承が失われるのをおそれ,養子の5代宗左(随流斎)のために綴った『江岑夏書』などの茶書は,茶道史料として貴重である。<参考文献>千宗左(13代)編『元伯宗旦文書』,同編『表千家』,千芳紀「江岑宗左と随流斎」(『茶道雑誌』1993年11月号)

(熊倉功夫)


千宗左(7代)

没年:宝暦1.8.13(1751.10.2)
生年:宝永2(1705)
江戸中期の茶人。不審庵表千家7代家元。幼名は与太郎。宗巴,宗員ののち享保15(1730)年宗左を襲名した。如心斎,丁々軒を号し,道号は天然。父は6代宗左(覚々斎原叟)。都市における茶道人口の増加にともない,一種の集団稽古ともいうべき千家七事式を考案し,稽古の面白さを工夫した。また全国的な流派の普及にともない家元制を整備し,高弟の川上不白を江戸に派遣するなど,積極的に時代に対応した。如心斎は表千家中興ともいわれ,流出していた利休自筆遺偈を千家に戻した。<参考文献>千宗左(13代)編『表千家』

(熊倉功夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「千宗左」の意味・わかりやすい解説

千宗左【せんのそうさ】

表千家流の家元。祖の4世宗左〔1619-1672〕は千宗旦の三男。江岑斎と号した。不審庵を継いで不審庵4世を唱え以後宗左の名を世襲。紀州徳川家の茶頭を務めた。6世宗左〔1678-1730〕は原叟と号し千家の中興といわれる。13世宗左〔1901-1979〕は即中斎と号し,《即中茶記》がある。14世宗左〔1938-〕は而妙斎と号す。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千宗左」の解説

千宗左(5代) せん-そうさ

1650-1691 江戸時代前期の茶人。
慶安3年生まれ。久田宗利(ひさだ-そうり)の子。母は千宗旦(そうたん)の娘。伯父の4代千宗左の養子となり,表千家5代をつぐ。佐の字もつかい人偏そうさといわれた。紀伊(きい)徳川家の茶頭(さどう)。元禄(げんろく)4年7月19日死去。42歳。初名は宗巴(そうは)。号は良休,随流斎(ずいりゅうさい)。著作に「随流斎延紙ノ書(のべがみのしよ)」。

千宗左(4代) せん-そうさ

1613-1672 江戸時代前期の茶人。
慶長18年生まれ。千家3代千宗旦(そうたん)の3男。千利休の曾孫。寛永19年紀伊(きい)徳川家につかえ茶頭(さどう)となる。正保(しょうほ)3年父より家督をゆずられ不審庵をつぐ。以後代々宗左を名のり表千家と称される。寛文12年10月27日死去。60歳。号は江岑(こうしん),堪笑軒,逢源斎。著作に「千利休由緒書」「江岑夏書(げがき)」。

千宗左(7代) せん-そうさ

1705-1751 江戸時代中期の茶人。
宝永2年生まれ。6代千宗左の長男。表千家7代家元。裏千家をついだ弟の8代千宗室,援助者の三井八郎右衛門らと茶事の「七事式(しちじしき)」をさだめる。家元制を整備するなど,表千家の中興につくした。寛延4年8月13日死去。47歳。号は天然,如心斎。
【格言など】茶の湯とはいか成物をいふやらん墨絵に書し松風のこゑ(「茶話抄」)

千宗左(6代) せん-そうさ

1678-1730 江戸時代前期-中期の茶人。
延宝6年生まれ。5代千宗左の兄久田宗全(ひさだ-そうぜん)の子。5代の養子となり,元禄(げんろく)4年ごろ表千家6代家元をつぐ。紀伊(きい)徳川家の茶頭(さどう)をつとめ,藩主頼方(よりかた)(のちの将軍吉宗)の師となる。享保(きょうほう)15年6月25日死去。53歳。号は原叟,覚々斎。

千宗左(13代) せん-そうさ

1901-1979 昭和時代の茶道家。
明治34年1月27日生まれ。12代千宗左の次男。昭和12年表千家13代家元をつぐ。24年財団法人不審庵を設立。50年表千家同門会を発足させ茶の普及につとめた。また不審庵伝来の「元伯宗旦文書」を公刊。昭和54年8月29日死去。78歳。京都出身。京都帝大卒。号は即中斎。編著に「即中茶記」など。

千宗左(10代) せん-そうさ

1818-1860 江戸時代後期の茶人。
文政元年生まれ。9代千宗左の弟の久田宗也の子。8歳で9代の養子となり,表千家10代家元をつぐ。紀伊(きい)徳川家につかえ,9代から皆伝をうけた10代藩主徳川治宝(はるとみ)から返伝授された。のち利休二百五十回忌をいとなむ。万延元年6月6日死去。43歳。号は祥翁,吸江斎,安祥軒など。

千宗左(8代) せん-そうさ

1744-1808 江戸時代中期-後期の茶人。
延享元年生まれ。7代千宗左の長男。表千家8代家元。幼少で父に死別したので,8代千宗室や初代川上不白(ふはく)に茶の湯をまなぶ。天明8年の大火で蔵以外の家屋敷が全焼したが,再建。のち利休二百回忌を主催した。文化5年10月6日死去。65歳。号は件翁,啐啄斎(そつたくさい)。

千宗左(14代) せん-そうさ

1938- 昭和後期-平成時代の茶道家。
昭和13年5月6日生まれ。表千家13代千宗左の長男。昭和55年14代家元をつぐ。古来の伝統を保守する茶風をつらぬく。平成2年利休四百年遠忌を主宰。不審庵理事長,表千家同門会名誉会長。京都出身。中央大卒。本名は岑一郎(しんいちろう)。号は而妙斎(じみょうさい)。

千宗左(11代) せん-そうさ

1837-1910 幕末-明治時代の茶道家。
天保(てんぽう)8年生まれ。10代千宗左の長男。表千家11代家元。明治維新で紀伊(きい)徳川家の禄をはなれる。近代茶道の新興をはかった。明治43年1月7日死去。74歳。号は瑞翁,碌々斎(ろくろくさい),碧雲軒など。

千宗左(9代) せん-そうさ

1775-1825 江戸時代後期の茶人。
安永4年生まれ。茶人久田宗渓の長男。8代千宗左の婿養子となり,表千家9代家元をつぐ。紀伊(きい)徳川家につかえる。文政8年8月7日死去。51歳。号は曠叔(こうしゅく),了々斎,好雪軒。

千宗左(12代) せん-そうさ

1863-1937 明治-昭和時代前期の茶道家。
文久3年生まれ。11代千宗左の長男。表千家12代家元。明治39年火災にあった不審庵を大正2年再興。昭和12年7月18日死去。75歳。号は散翁,惺斎(せいさい)。

千宗左 せんの-そうさ

⇒せん-そうさ

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「千宗左」の解説

千 宗左(表千家13代目) (せん そうさ)

生年月日:1901年1月27日
大正時代;昭和時代の茶道家。茶道表千家13世家元;不審庵理事長
1979年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の千宗左の言及

【表千家流】より

…千利休を開祖とする茶道流儀の一つ。代々宗左を名のる。利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。…

【不審庵】より

…表千家を代表する茶室で表千家邸内(京都市上京区)に所在。また表千家流家元の庵号として呼ばれる。利休の賜死後,京都上京の本法寺前に千家再興を許された千少庵は,深三畳台目と三畳道安囲(どうあんがこい)の茶室をつくり,いずれかに〈不審庵〉の額を掲げていた。次いで千宗旦は一畳半を造立して不審庵と称した。これを受け継いだ江岑(こうしん)宗左が,父宗旦とはかり新しく平三畳台目に建て替えたのが,現存する不審庵の始まりである。…

※「千宗左」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android