江戸前期の茶人。表千家・不審庵(ふしんあん)1世。初め宗受といい、のち宗左、江岑(こうしん)、逢源斎(ほうげんさい)と号す。千宗旦(そうたん)後妻の子(三男)。宗旦の奔走で1642年(寛永19)紀州徳川家の茶頭(さどう)となる。宗旦が屋敷の北に移って隠居したことから、その跡を継いだ弟宗室の系統を裏千家というのに対して、家督を継いだ宗左の系統を表千家といい、おもな茶室名をとって不審庵ともいう。江戸深川の材木商冬木家の所有に帰していた利休の辞世を、弟子で江戸千家の祖となった川上不白の斡旋(あっせん)で取り戻した。『千利休由緒書』は、紀州家から尋ねられた宗左が、千家の系譜や利休の事績などについて答えたもので、子の随流斎に書き与えた茶事の覚書『江岑夏書(げがき)』とともに貴重な文献。
[村井康彦]
昭和期の茶道家 表千家家元(13代目);不審庵理事長。
明治〜昭和期の茶道家 表千家家元(12代目)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
(熊倉功夫)
(熊倉功夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…千利休を開祖とする茶道流儀の一つ。代々宗左を名のる。利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。…
…表千家を代表する茶室で表千家邸内(京都市上京区)に所在。また表千家流家元の庵号として呼ばれる。利休の賜死後,京都上京の本法寺前に千家再興を許された千少庵は,深三畳台目と三畳道安囲(どうあんがこい)の茶室をつくり,いずれかに〈不審庵〉の額を掲げていた。次いで千宗旦は一畳半を造立して不審庵と称した。これを受け継いだ江岑(こうしん)宗左が,父宗旦とはかり新しく平三畳台目に建て替えたのが,現存する不審庵の始まりである。…
※「千宗左」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新