南海道(読み)ナンカイドウ

デジタル大辞泉 「南海道」の意味・読み・例文・類語

なんかい‐どう〔‐ダウ〕【南海道】

五畿七道の一。現在の近畿地方南部と四国の全域。紀伊淡路阿波讃岐さぬき伊予土佐の6か国。また、この国々を結ぶ街道のこと。

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精選版 日本国語大辞典 「南海道」の意味・読み・例文・類語

なんかい‐どう‥ダウ【南海道】

  1. 律令制行政区画、五畿七道の一つ。紀伊・淡路・阿波・讚岐・伊予・土佐の六か国の称。畿内の南にあって海に沿う諸国をさした。また、その地域の幹線道路をもいう。
    1. [初出の実例]「従七位上小野朝臣馬養于南海道」(出典:続日本紀‐大宝三年(703)正月甲子)

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日本歴史地名大系 「南海道」の解説

南海道
なんかいどう

〔古代〕

領域としての南海道は、本州南端の紀伊国、島としての淡路国、阿波・讃岐・伊予・土佐の四つの国からなる四国により構成され、海や山地により他と分断された国々を貫いて官道である南海道の駅路が走る。南海道は小路と規定されており(厩牧令)阿波国内の二駅には駅馬は各五匹が置かれることになっていた(「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条)。七世紀後半から一〇世紀初頭に至る間、都から延びる駅路の経路には、四国内部に限ってみても変動がしばしば起こっている。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によれば、淡路国福良ふくら(現兵庫県南淡町)から海を渡り、四国の初駅は阿波国石隈いわくま(石濃)(現鳴門市)で、ここから板野いたの郡の郡頭こおず(現板野町)を経由して阿讃あさん山脈を越えて讃岐引田ひけた(現香川県引田町)に達し、以後讃岐を縦断して伊予国に入る。伊予では大岡おおおか(現愛媛県川之江市)近井ちかい(現同県土居町)などの駅を通り伊予国府(現同県今治市)に達し、土佐国へは大岡駅から南に分れ四国山地を越えて吾椅あがはし(現高知県本山町)などを通り土佐国府(現同県南国市)に達する。これ以前に相当規模の大きい経路変更があった。

続日本紀」養老二年(七一八)五月七日条に「土左国言、公私使直指土左、而其道経伊予国、行程迂遠、山谷険難、但阿波国境、境土相接、往還甚易、請就此国、以為通路、許之」とあり、それまでの讃岐・伊予を経由して土佐へ向かう道に加え、阿波から土佐へ直接向かう経路が土佐国からの訴えにより新設された。この新設経路は紀伊水道沿いに土佐に達したとみなされている。なおこの際それまでの讃岐・伊予経由の道は廃止されず、引続き利用されたと考えられており、仁淀によど川沿いに土佐国府に達する経路を想定する説と、伊予国府から伊予宇和島を経由して土佐中村なかむら(現高知県中村市)に出て土佐国府に達する海岸沿いの経路を想定する説とが出され、後者のほうを妥当とする考え方が有力である。すなわち八世紀の段階では阿波の撫養むや(現鳴門市)を出発点に四国の平野と海岸地帯を大きく取巻いて土佐国府に達する周行経路が存在していた。


南海道
なんかいどう

古代における中央の都京と紀伊・淡路・四国を連絡した駅路。七道の一つで、大路の山陽道、中路の東海道・東山道に対して、南海道は小路となっていた。飛鳥京・藤原京・平城京など奈良盆地に都京が置かれていた時期の南海道は、しもツ道から巨勢こせ道を経て紀ノ川河谷に至るルートであったが、長岡京、次いで平安京の時期になると、河内国と和泉国を通る路線に変更された。「延喜式」によると河内国の駅家と駅馬は「楠葉、槻本、津積各七疋」、和泉国は「日部、唹各七疋」と記載される。枚方ひらかた市の楠葉くずはに比定される楠葉くすは駅は、和銅四年(七一一)に平城遷都に伴う山陽道の路線変更によって新設されたが(→山陽道、長岡京造営後に南海道の首駅となったものである。平安京を起点とする南海道は、羅城門から南下する鳥羽造道とばつくりみちと南西方向に山崎やまさき(現京都府乙訓郡大山崎町)まで直進する久我こが(縄手)の区間は山陽道との併用道であるが、山崎駅から山陽道と分離して山崎橋で淀川を越えて楠葉駅に至り、ここから男山おとこやま丘陵と生駒山地の西麓を南下し河内国府(現藤井寺市)へ向かった。津積つつみ駅の位置は「和名抄」に河内国大県おおがた郡津積郷があり、現柏原かしわら市の法善寺ほうぜんじに比定されているが(現八尾市の恩智に比定する説もあるが、恩智は高安郡に属する)槻本つきもと駅については延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に河内国錦部にしごり郡槻本里と河内郡六条馬里がみえるので、現河内長野市の三日市みつかいち町と東大阪市の植付うえつけに比定する二つの説がある。後者の場合は東大阪市の日下くさか町の南に位置して「古事記」雄略天皇段にみえる「日下の直越え」の道との交点に近く、楠葉駅と津積駅との中間にあって有力な所説であるが、津積駅想定地に近すぎるのではないかという難点がある。


南海道
なんかいどう

古代、五畿七道の一として行政上紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐六ヵ国の地域をいうが、また延暦一三年(七九四)の遷都以前は平城京、以後は平安京と前記の国国をつなぐ官道の呼称でもある。「日本書紀」仲哀天皇二年三月一五日条に「天皇、南国を巡狩す」とみえ、南国は南海道をさしていると考えられる。これを初見とし、同書天武天皇一四年九月一五日条は「直広参路真人迹見を南海使者とす」と記す。

官道としての南海道は、はじめ都から土佐の国衙(現南国市)に至るには紀伊の国衙を経て同国賀太かだ駅より淡路・鳴門海峡を渡り阿波の牟夜むや(撫養)に着き、西行して讃岐・伊予の国府を経て土佐に入るものだった。この伊予経由のルートは、「続日本紀」養老二年(七一八)五月七日条に「土左国言、公私使直指土左、而其道経伊与国、行程迂遠、山谷険難」と記され、これが唯一の手掛りであるところから諸説がある。(一)西条盆地(愛媛県西条市)から南下して四国山地を横断し、大森おおもり川沿いに土佐郡本川ほんがわ(現本川村)に達した後、仁淀によど川沿いに吾川あがわ伊野いの(現伊野町)に出て東進するという説、(二)伊予の温泉おんせん郡を経て仁淀川沿いに下るのが最も自然という説、(三)幡多はた平田ひらた(現宿毛市)曾我山そがやま古墳(波多国造の墳墓に比定)を手掛りに伊予を南下して幡多路(宿毛・中村両街道)を経て東進したとする説などがある。


南海道
なんかいどう

南海道は古代には五畿七道の一つとして行政上の地域を称し、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の六国をさした。「日本書紀」天武一四年九月一五日条に「直広参路真人迹見を南海使者とす」とみえる。その範囲は、大化二年(六四六)正月一日の改新の詔により畿内の四至が定められた時、畿内の南限は紀伊兄山せのやま(現伊都郡かつらぎ町)とされている(日本書紀)。南海道はまた延暦一三年(七九四)の遷都以前は平城京、以後は平安京と前記六国を結ぶ官道を称した(以下、前者の官道を古南海道、後者の官道を新南海道と記す)

古南海道は南大和から国境の真土まつち山を越えて紀伊国に入り、紀ノ川北岸を西進して萩原はぎはら(現かつらぎ町)名草なくさ加太かだ(現和歌山市)に至り、加太から海路で淡路に渡る。古南海道にあたる道がいつ頃から用いられたかはわからないが、「日本書紀」雄略紀などにみえる大和朝廷朝鮮出兵は紀ノ川河口を基点としたと考えられ、とすればすでに大和から交通がなされていたと思われる。「古事記」垂仁天皇段には、本牟智和気王のために白鳥を追求めた山辺大が大和国十市郡から紀伊国を経て播磨国・丹波国に至る話があり、古く南大和を宮室が転遷していた時代の南大和と紀ノ川河口を結ぶルートをうかがわせる。先のごとく大化改新の詔で、畿内の南限を古南海道の近傍にある紀伊兄山としたのも、この要路が通っていたためと考えられ、改新後の交通路整備に引続き重要視されたといえよう。なお大化改新の詔に関係して、兄山近傍を通過する道が大和を起点としたか、孝徳朝の難波宮(現大阪市東区)を起点としたかという議論が古くからある。

大宝元年(七〇一)の大宝律令制定で全国交通路は急速に整備されたと考えられる。「続日本紀」同二年正月一〇日条に「始置紀伊国賀駅家」とあって古南海道に賀太かだ駅が設置された。


南海道
なんかいどう

畿内から四国方面に向かう交通路。南海道は古代の行政区画としては五畿七道の一つであり、紀伊国・淡路国と四国諸国(阿波・讃岐・伊予・土佐)の六ヵ国よりなっていた。淡路島瀬戸内海に浮ぶ最大の島であり、東は大阪湾に面し、西は播磨灘に面している。古来より難波と西海道を結ぶ海上交通の要衝の地であり、風待ち・潮待ちのため大いに利用された。南海道諸国と淡路国の関係をみるに、紀伊国との間には紀淡きたん海峡があり、四国との間は鳴門なると海峡にさえぎられていた。官道南海道はこの海峡を越えて、淡路国を中継地とするかたちで設定されていた。都からは南大和と紀伊国の境にある真土まつち山を越えて紀ノ川筋に至り、そこから下って海部あまかだ(賀太)(現和歌山市)に進む。同駅からは西方に海路をとり、一二キロの道のりを経て淡路国の由良ゆら(現洲本市)に上陸する。同地には海路の守りとなる由良湊ゆらみなと神社が鎮座している。由良からは島内を陸路によって進むが、「延喜式」兵部省には「淡路国駅馬由良、大野、福良各五疋」とあり、淡路を通過する南海道は小路の扱いであった。


南海道
なんかいどう

紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐六ヵ国の国府を結ぶ古代の官道。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬には、南海道の讃岐国内に各伝馬四疋を置く引田ひけた松本まつもと三谿みたに河内こうち甕井みかい柞田くにたの六駅を記す。引田駅は阿波国郡頭こおず駅から讃岐に入った最初の駅で、現大川郡引田町馬宿うまやどに比定されている。松本駅は同郡大川町田面たづら、三谿駅は三谷みたに郷に比定される現高松市三谷町、河内駅は国府所在であった現坂出市府中ふちゆう町に比定される。甕井駅は現仲多度なかたど多度津たどつ三井みつい、または同地よりやや南方の現善通寺市弘田ひろた永井ながいなどにあてる説がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「南海道」の意味・わかりやすい解説

南海道 (なんかいどう)

古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。《西宮記》では〈ミナミノミチ〉〈ミナミノウミノミチ〉と読んでいる。畿内の南西に位置し所属国の大部分が瀬戸内海に臨む地域であるため,内海交通の活発とあいまって大和朝廷の時代から重要な地域であった。685年(天武14)に南海使者として路迹見(みちのとみ)派遣のことがみえるので,この道の成立時期は天武朝末年とみられる。《延喜式》では紀伊,淡路,阿波,讃岐,伊予,土佐の6国が所属するが,阿波以下のいわゆる四国と,紀伊,淡路はそれぞれ異なる性格を持っていたようで,719年(養老3)の按察使(あぜち)管国のさい,阿波,讃岐,土佐の3国は伊予守の管轄下に置かれたが,淡路は播磨守の管理下に属し,また721年紀伊は大倭(やまと)守の管理となっている。これは,畿内また山陽道に結びつけにくい紀伊と淡路を,地理上の近接から,もと伊予総領の支配管理していた四国に結びつけたのによろう。なお駅制の官道は小路とされ,各駅に5匹の駅馬をおく規定があるが,水路については規定をみない。
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百科事典マイペディア 「南海道」の意味・わかりやすい解説

南海道【なんかいどう】

五畿七道の一つ。畿内から四国に至る道。また沿道の諸国。《延喜式》では紀伊(きい)・淡路(あわじ)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)・土佐(とさ)の6ヵ国。
→関連項目淡路国阿波国伊予国駅・駅家紀伊国讃岐国土佐国

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南海道」の意味・わかりやすい解説

南海道
なんかいどう

古く京畿(けいき)の南方、太平洋に臨む行政区域で、紀伊、淡路、阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、伊予、土佐の六か国をさし、その道筋をもいう。『日本書紀』は、仲哀(ちゅうあい)天皇の2年、天皇が「南国」を巡狩(じゅんしゅ)し、紀伊国に到り徳靭津(ところつ)宮(和歌山市新在家(しんざいけ))に居たとし、さらに685年(天武天皇14)六道への使節派遣に際して、路真人迹見(みちのまひととみ)を「南海」への使者にしたと記している。この南国・南海が南海道を意味するか否かは判然としないが、700年(文武天皇4)ごろ七道の制が定まって以降、前記六か国が管轄されるようになった。『延喜式(えんぎしき)』は、紀伊・淡路を近国、阿波・讃岐を中国、伊予・土佐を遠国(おんごく)としている。なお、南海道の道筋は小路(しょうろ)で、各駅には馬五疋(ひき)を定置した。

丸山雍成

『『古事類苑 地部一』(1970・吉川弘文館)』


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「南海道」の解説

南海道
なんかいどう

(1)古代の七道の一つ。現在の近畿地方南西部から四国地方にかけての地域で,紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の各国が所属する行政区分。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も南海道と称した。畿内から各国府を順に結ぶ陸路を基本に官道が整備され,紀伊国から淡路国,淡路国から阿波国へは海路で連絡した。駅路としては小路で各駅に5頭の駅馬がおかれる原則であり,「延喜式」では総計22駅に110頭の駅馬をおく規定であった。地方官として731年(天平3)に南海道鎮撫使(ちんぶし),746年にも南海道鎮撫使,761~763年(天平宝字5~7)に南海道節度使を設置した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南海道」の意味・わかりやすい解説

南海道
なんかいどう

『延喜式』による五畿七道の一つ。紀伊,淡路,阿波,讃岐,伊予,土佐の6国の国府を通る道をいい,同時にこれら各国の総称。現在の四国,和歌山と淡路島の範囲である。畿内より南の海域へ下る道であることから命名されたといわれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「南海道」の解説

南海道
なんかいどう

律令制における五畿七道の一つ
現在の和歌山県・淡路島と四国全土をいう。紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の6カ国。

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世界大百科事典(旧版)内の南海道の言及

【駅伝制】より

…中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。…

※「南海道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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