吉沢村(読み)きちさわむら

日本歴史地名大系 「吉沢村」の解説

吉沢村
きちさわむら

[現在地名]今市市吉沢

北境を赤堀あかほり川、南境を川がともに南東へ流れる。都賀つが郡に属し、北は今市宿、南は室瀬むろぜ村。西端を壬生みぶ通が通り、村内の杉並木は約四町一〇間(宿村大概帳)。元和六年(一六二〇)徳川秀忠により東照大権現社領として寄進された村のなかに吉沢村七五石余がある(「東照宮領目録」日光山御宮方書物之写)。寛文六年(一六六六)検地帳(小野雅弘文書)によれば畑・屋敷のみで二八町九反余、うち一五町余を下畑・下々畑が占める。また同年の「吉沢村新田」の検地帳(同文書)があり、畑・屋敷のみで二五町二反余、うち一五町余を下畑・下々畑が占める。同新田は慶安郷帳に記載がないので、慶安年間(一六四八―五二)以降寛文六年までの間に開発されたのであろう。


吉沢村
きつさわむら

[現在地名]敷島町吉沢

大久保おおくぼ村の北東あら川流域に位置する。東は平瀬ひらせ(現甲府市)。「一蓮寺過去帳」によると、文安四年(一四四七)頃に吉沢の道阿弥陀仏、明応六年(一四九七)一一月に吉沢の現阿弥陀仏の供養が行われている。天正一〇年(一五八二)六月二四日、坂本作右衛門尉は徳川家康から本領を安堵され、そのなかに吉沢郷五貫文がみえる(「徳川家知行書立」坂本忠敬家文書)。同人には同年一二月三日に改めて甲州橘沢(吉沢)内三〇〇文・同徳分七貫文などが本領安堵された(徳川家印判状写「古文書雑集」若尾資料)。同一七年一一月二一日、荻原甚之丞に吉沢郷内六一五俵余などが、同月二三日、御岳衆に吉沢郷内三四七俵余などが宛行われた(一一月二一日「伊奈忠次知行書立写」御庫本古文書纂など)


吉沢村
よしざわむら

[現在地名]菰野町吉沢

三滝みたき川の北岸沿い、鵜河原うがわら村の西南に位置する。平安時代には「和名抄」にいう三重郡葦田あしみた郷に属したと伝える(吉沢村地誌)。「神鳳鈔」に「二宮吉沢御厨各三石、六九十二月」と出ている。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳では家臣太田助兵衛が吉沢・ふく村で「弐百貫」を知行したが、江戸時代を通じて菰野藩領であった。属邑の一色いつしきは寛文元年(一六六一)に、曾根田そねだは同一二年に、それぞれ人家ができた(吉沢村地誌)


吉沢村
よしざわむら

[現在地名]由利町吉沢

子吉こよし川中流の左岸、東由利原ひがしゆりはら高原の山麓。北は子吉川を隔てて新上条しんかみじよう村、南は矢島領小板戸こいたど(現矢島町)と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に滝沢領の一村として村名がある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には一六五石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳に高一八二石五斗三升九合とある。子吉川の蛇行部にあたり洪水の度に被害を受けた。明暦年間(一六五五―五八)滝沢たきざわ郷の名主畑中喜右衛門が河川改修の願を度々代官所に訴え、万治元年(一六五八)処刑された(由利町史)


吉沢村
よしざわむら

[現在地名]太田市吉沢

八王子はちおうじ丘陵東麓から東方平地にかけ立地し、山田郡に属した。西は新田につた強戸ごうど村、東は只上ただかり村、北は一本木いつぽうぎ(現桐生市)、南は丸山まるやま村。西端を桐生道がほぼ南北に通じ、中央を新田堀、東辺を休泊きゆうはく堀が用水として村内を南流する。寛文郷帳によると館林藩領に属し、芝山有と注記され田方二七九石余・畑方五六八石余。元禄郷帳では旗本比企領などの四給で、高は一千七三石余に増加している。文政一〇年(一八二七)の太田町組合村々石高控帳(太田宿本陣史料)によると旗本黒田領などの三給。江戸後期の御改革組合村高帳では家数六一。はね石山は一本木村との入会秣場で当村が山元村であった(寛文一一年「山境論裁許状」園田文書など)


吉沢村
よつさわむら

[現在地名]弥栄町字吉沢

小原おばら山北西山麓の間人たいざ街道沿いに位置し、集落の西は竹野川沿岸に田が開ける。

丹後国田数帳に

<資料は省略されています>

とある中世の吉沢保の地にあたり、中世末の丹後国御檀家帳には次のようにある。

<資料は省略されています>

慶長七年(一六〇二)六月の検地では高六九六・八八石、名請人のなかに一〇人ほどの「わたし」があがっていて(吉沢村検地帳)、当時の竹野川水運の状況をうかがわせる。


吉沢村
よしさわむら

[現在地名]菊川町吉沢

和田わだ村の北、西流する菊川と南流する富田とみた川合流点近くに位置する。永禄一二年(一五六九)一月一二日、徳川家康は河村かわむらのうち犬間いぬま・吉沢七〇貫文を大村弥十郎に本知行地として安堵している(「徳川家康判物写」歴代古案)。天正二年(一五七四)九月九日の武田勝頼判物写(同文書)でも犬間・吉沢七〇貫文が同じく大村弥十郎に安堵されている。「小笠町史」は古老の口碑として、かつて吉沢村の飯間いいのまに東西寺があり、菊川東中学校の場所であると記す。犬間はこの飯間にあたる可能性が高い。正保郷帳によると田方三〇五石余・畑方一一八石余、「松山」「芝山」「新田有」の注記がある。


吉沢村
よしざわむら

[現在地名]四日市市大宮おおみや町・大宮西おおみやにし町・山手やまて

別名べつめい村の南に位置し、東は羽津はづ村。「神鳳鈔」に「吉沢御厨三十丁」とある。江戸時代を通じて桑名藩領。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、本高のほかに村高と称される新田分一三石余がある。免は九ツ五分二厘九毛。戸数一四、人数七六。寺院は明円みようえん(浄土真宗本願寺派)。鎮守はしで神社。これは羽津村と持会であった。同時期と考えられる案内雑書(西尾市岩瀬文庫蔵)によれば、年貢のほか山手米が課せられている。


吉沢村
よしざわむら

[現在地名]五泉市吉沢・吉沢一―三丁目・駅前えきまえ一―二丁目・太田おおた一丁目・郷屋川こやがわ二丁目

早出はいで川支流の郷屋川に沿い、北西は五泉町、東は赤海あこうみ村・太田村に接する。慶長一九年(一六一四)の村上領高附並組々村覚(寛政六年写、五泉郷土史)では三本木組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高二八二石八斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となるが、その後高田藩・忍藩などの支配を受け、天保元年(一八三〇)以降は沼津藩領となる。


吉沢村
きちさわむら

[現在地名]市原市吉沢

新井あらい村の南に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二二七石で、幕末まで同様。慶長七年(一六〇二)より久留里藩領と考えられ、寛永一八年(一六四一)当村の検地が行われている(長谷川家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数七六で、旗本市岡・小倉領。


吉沢村
よしざわむら

[現在地名]喜多方市熊倉町くまぐらまちみやこ

高柳たかやなぎ村の南東、雄国おぐに山の西麓に位置する。東は雄国新田村。寛文五年(一六六五)の「大塩組風土記」によると高八五石余、免六ツ五分四厘余、反別は田方四町六反余・畑方五町五反余。綿役銀一一匁一分余、漆木役四一五本などを負担していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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