朝日日本歴史人物事典 「吉田玉造(初代)」の解説
吉田玉造(初代)
生年:文政12(1829)
幕末から明治期の文楽人形遣いを代表する名人。本名吉倉玉造(亀吉?)。通称親玉あるいは大宝寺町。人形遣い吉田徳造の次男で12歳で初舞台を踏み,翌年には大坂座摩西の芝居で「傾城阿波の鳴門」のおつるを遣って評判を得た。3代目竹本長門太夫,2代目豊沢団平と幕末の三名人と呼ばれ,3人共演「義経千本桜」の「すしやの段」で息が合った瞬間,権太を遣う玉造の腹帯がぷっつり切れたという。立役,荒物,道化のほか動物を遣うこともうまく,また歌舞伎役者とも交わって早替わりや宙乗りを工夫した。「五天竺」の孫悟空では70日間の大入りを記録した。明治5(1872)年,初の人形紋下となったが36年に病気のため引退した。<参考文献>茶谷半次郎「鶴沢叶聞書」(『文楽聞き書き』)
(山田庄一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報