改訂新版 世界大百科事典 「同和対策」の意味・わかりやすい解説
同和対策 (どうわたいさく)
被差別部落(いわゆる同和地区)に関する社会的・経済的諸問題の解決を目的とする国および地方公共団体の施策。第2次大戦前にも行政が部落差別問題の解消をはかる措置を講じたことはあったが,同和対策の著しい進展をみたのは,日本国憲法の下での民主主義思想の広まり,人権意識の高揚,それにもとづく部落解放運動の展開という新しい状況を迎えた戦後のことであり,その基本的方策が示されたのは,1965年に同和対策審議会の答申(同対審答申)が提出されてからのことである。ちなみに〈同和〉の語は,戦前の融和政策の中で用いられた〈同情融和〉〈同胞一和〉などに由来し,とくに1926年の昭和天皇朝見の儀の勅語の一節〈人心惟(こ)レ同シク民風惟レ和シ〉にもとづくと説明された。
明治政府は1871年(明治4),富国強兵政策の一環として太政官布告(いわゆる〈賎民解放令〉)を発布し,封建的賤民身分を廃止したが,制度はなくなっても部落差別は残存し,近代社会の重要な社会問題の一つとなった。1890年代以降,各地の被差別部落で差別の解消をめざす自主的な部落改善運動が起こされ,その全国的な結集もはかられた。政府は,この自主的な部落改善運動が反体制の方向に進むことを恐れて,上からの統制にのりだした。上からの部落改善政策は,日露戦争後の政府の地方改良運動に組み込まれ,地方体制の再編強化,国家富強の基礎固めの役割を担ったが,部落差別の原因と責任を,部落住民の側にのみ押しつけるものであったから,この政策によっては,部落差別を解消する方向は生まれず,明治末期からは被差別部落外の国民にも部落差別の反省を促し,被差別部落出身者への同情融和を求める融和政策がとられはじめた。とくに1918年の米騒動とその後のデモクラシー運動の展開,さらに部落住民の差別撤廃の動きの高まりの中で,融和政策は治安対策としても強化されていった。政府は20年度の予算に初めて地方改善費5万円を計上し(1921年度21万円,23年度は49万円に増額),各府県には長野県の信濃同仁会,広島県の共鳴会のような融和団体がつぎつぎと設立されていった。さらに22年に全国水平社が結成されて自主的な部落解放運動が活発化すると,融和政策はいよいよ本格的となり,27年,中央融和事業協会(中融協,1925年内務省社会局に創設)の指導の傘下に,全国各地の融和団体を統合した。中融協は翌年から,水平社運動の停滞に乗じて,部落住民を直接に組織しようとはかり,内部自覚運動を進めた。また政府は昭和恐慌による打撃を克服するために,32年以降,農山漁村経済更生運動の一環として,部落経済更生運動を展開し,部落の自力更生を唱えた。35年には,全国融和事業協議会において〈融和事業完成十ヵ年計画〉が決定された。この十ヵ年計画は被差別部落の自覚更生をうたい,産業経済,教育文化,環境整備の諸施設のために約5000万円を投じて,部落問題対策を完結させようとした戦前最大の融和政策であったが,初年度36年の予算措置が計画の5分の1にすぎず,37年には日中戦争が全面化したため,国家総動員体制強化の政策の中に吸収される運命をたどった。中融協は41年,〈一億総進軍の急需〉にこたえるべく同和奉公会と改称し,その経済更生計画も物的・人的資源の調整をはかるものとなり,もはや部落差別の解消ではなく,部落住民を戦争遂行に動員することを主目的とするにいたった。
第2次世界大戦後の1946年,部落解放運動は再発足をとげ,水平社運動の伝統を受け継いで,部落解放全国委員会(解放委)が結成された。また51年には,解放委と地方公共団体の同和対策関係職員などによって全日本同和対策協議会が組織された。この年,京都市の職員が雑誌《オール・ロマンス》に市内の地域を題材にして差別的な内容の小説を発表した〈オール・ロマンス事件〉を契機とした差別糾弾闘争のなかで,解放委は行政の停滞と怠慢が部落差別を助長させているとして,行政闘争の方針を提起し,地方公共団体に同和行政の質的な転換を迫った。さらに57年からは,部落解放同盟(1955年,解放委が改称)を中心に地方公共団体,民主団体などが結集して,部落解放国策樹立要請運動を進めた。その結果,60年,内閣に同和対策審議会を設置することが決まり,65年には同審議会から〈同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策〉についての答申が提出された。このいわゆる同対審答申は,部落差別問題が日本国憲法の理念である基本的人権にかかわる問題であり,その早急な解決が国の責務であり同時に国民的課題であるとの認識に立って,環境改善,社会福祉,産業・職業・教育問題,人権問題など同和対策の具体案を示し,また同和対策の方向として特別措置法の制定,推進機構の設置,国の財政的補助,総合計画の策定などをあげた。この答申にもとづいて69年に〈同和対策事業特別措置法〉が制定され(10ヵ年の時限立法,1979年に3ヵ年延長),こうして69年から82年までに国家予算としては総額1兆7168億5200万円が組まれて,同和対策事業が推進された。答申および同法は,部落解放運動が実現させた成果であったが,同時に政府がその高度経済成長政策の中で部落差別問題の解消を図ろうとした面を持ち,さらに実際の運用においては,国に比して地方公共団体の財政負担が大きいなどの問題を内包していた。同和対策事業特別措置法の期限切れにともない,82年に同法の趣旨を受け継いだ〈地域改善対策特別措置法〉(地対法,5ヵ年の時限立法)が公布施行された。その期限切れの87年,さらに〈地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律〉(地対財特法,5ヵ年の時限立法,1992年に5ヵ年延長)が施行された。96年に〈人権擁護推進法〉が公布され(1997年施行,5ヵ年の時限立法),国の責務として教育および啓発の推進,被害者の救済などの推進を定め,それに必要な体制として人権擁護推進委員会が設置された。同和対策事業については,政府与党の3党の合意にもとづき,未完事業に限り5年の間事業を継続することになった。
国民の人権意識が成長をとげ,部落差別問題の理解が広まってきた反面で,なお無知・無理解の者も少なくない。法による同和対策が終了しても,偏見を正す啓発・教育の取組みの必要を含め,部落差別問題の解決にかかわる課題は残されている。
→被差別部落 →部落解放運動
執筆者:川村 善二郎
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