和泉町(読み)いずみまち

日本歴史地名大系 「和泉町」の解説

和泉町
いずみまち

[現在地名]東区和泉町二丁目

御祓おはらい筋を境に江戸えど町の西に延びる両側町。山城伏見ふしみから移った町で、もと伏見和泉町と称した(初発言上候帳面写)。明暦元年(一六五五)の水帳奥書写(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)に和泉町とみえ、同年の大坂三郷町絵図に「いつミ町」とある。当町には日向ひゆうが町の異名(摂陽見聞筆拍子)、また鴻池家などの金満家が多いため、尻に金を張った雪踏にかけた雪踏屋せつたや(浪華百事談)などの異名があった。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数一四・役数二八役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。


和泉町
いずみまち

[現在地名]松本市あさひ一丁目・城東じようとう二丁目

松本城下町の枝町一〇町の一。ひがし町の北に続く町家の街で、西は武家屋敷ふくろ町に接する。町名の起りは、この地帯に湧水が多いことによる。女鳥羽めとば川水系の地下水である。「信府統記」に「和泉町 南北長サ三町四拾七間、又は三町三拾二間トモ、町幅三間、家数百拾一軒、町番所二ケ所、長称寺小路東側ニアリ、長サ三拾九間、幅二間、橋一ケ所。同心町東ニアリ長サ一町九間三尺、幅二間、木戸アリ」とある。

大安楽だいあんらく寺は、岡宮おかのみや神社の南に接し、もと御徒士おかち町方面からの移築である。「信府統記」によると、「真言宗寺院安原山安楽寺、高野山竜光院末寺ナリ城下町ニアリ、当寺ノ開基ハ行基菩薩ト云伝フ、其年代分明ナラス、中興の開山ハ法印憲孝ト云フ、観音堂本尊ハ行基ノ作ノ十一面観音、安阿弥ノ作ノ千手観音ナリ、外ニ内仏アリ、是ハ先ノ城主小笠原氏ノ命ニヨリ中興ヨリ八代ノ住持法印日弁封印ヲ以テ固ク納メシヨリ、代々ノ住持開クコトナシ、(中略)護摩堂本尊ハ不動尊、知証大師ノ作(中略)本坊ノ内仏ハ金剛界大日如来運慶ノ作ナリ云々」とある。


和泉町
いずみちよう

[現在地名]中区丸の内まるのうち二丁目

上畠うわはた町の東、益屋ますや町の西にあり、伏見ふしみ町筋と桑名くわな町筋との間の一丁をいう(町名起因並町家由緒)清須きよすにて上畠町東の切ひがしのきりと称したが、慶長一五年(一六一〇)移転し旧名をそのまま用いた(府城志)。移動時期は不詳とも(蓬左遷府記稿)、遷府以前よりの町とも(尾張志)いわれる。


和泉町
いずみまち

[現在地名]大津市中央ちゆうおう四丁目・京町きようまち四丁目

九軒きゆうけん町の東から南に続く町屋敷で、寛保二年町絵図には泉町とみえ、南側は京町通に面している。京町通に面して成覚じようかく寺、九軒町の東方に西栄さいえい寺がある。慶応元年(一八六五)大津宿役を負担した役家数は二六軒(大津市志)。浄土宗成覚寺は「浄土宗寺院由緒書」によれば京都知恩院末で、文禄元年(一五九二)の建立。浄土真宗本願寺派西栄寺は元禄五年下寺開基帳に虫損があるが干支より推定して慶長一三年(一六〇八)の草創と思われ、開基宗寿、当住了学とある。


和泉町
いずみちよう

下京区東洞院通五条下ル三丁目

南北に通る東洞院通(旧東洞院大路)を挟む両側町。

平安京の条坊では、左京六条三坊三保一三町東側と六条四坊二保四町西側の地。平安時代、町の西側は寛平法皇(宇多天皇)の御所中六条院の地で、東側は白河天皇の六条内裏にあたっていた(拾芥抄)。また応永三二年(一四二五)の酒屋交名(北野天満宮史料)には「六条東洞院北東頬 三郎」とあり、当町に酒屋を営むもののいたことがわかる。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「和泉丁」とあり、以後江戸時代を通じて変わらない。


和泉町
いずみちよう

[現在地名]姫路市北条口ほうじようぐち一―五丁目・古二階町こにかいまち

姫路城南東の外曲輪に位置する町人町。古二階町・伽屋とぎや町の東にある南北の町筋。慶長六年(一六〇一)町割成立。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図に「いつミ町」とある。


和泉町
いずみまち

[現在地名]本荘市和泉町

本荘城下町の町人町である外町西端にあり、矢島道の通路として栄えた。

明治二二年(一八八九)の畑段別四畝一一歩で、その修正地価金四円七九銭二厘、修正地租金一二銭一厘(本荘町志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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