唐船
からぶね
古代から近世を通じて,中国船に対する日本での呼称で,同時に日本で造った中国式の船の呼称でもあった。中国式のいわゆるジャンクは,遅くも6世紀には中国独特の船体構造と帆装をもつすぐれた海船として完成したが,その後段階的発達をとげて,中世以後には東南アジア,インド,南洋まで航跡を延ばして貿易に活躍した。船体は竜骨に多数の隔壁を組合せた骨組みに外板を張ったじょうぶな構造で,独自の網代帆の帆装は横風や逆風時にも高性能を発揮し,15~16世紀では世界のトップレベルの航洋帆船であった。なお室町時代には,遣明船のように日本から中国へ渡航する船を,船の型式にとらわれず唐船と呼んでいた。
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から‐ふね【唐船】
〘名〙
① 中国船の総称。
※袋草紙(1157‐59頃)上「新羅明神御歌 唐船に乗まもりにとこしかひは有りける物をここのとまりに」
② 唐式の船、または唐風の装飾をほどこした船。
※吾妻鏡‐建保五年(1217)四月一七日「宋人和卿造二畢唐船一」
③ 中世、中国との貿易にあたった日本船。渡唐船。
※師郷記‐永享六年(1434)五月二一日「室町殿兵庫御下向也。依二唐船着岸一也」
④ 近世、中国式や西洋式など外国船に模した日本製の船をいう。
※通航一覧附録(1853)一八「慶長のはじめ、伊豆国伊東〈賀茂郡に属す〉において唐船を造らしめ、江戸浅草川に繋せ給ふ」
とう‐せん タウ‥【唐船】
※御湯殿上日記‐明応七年(1498)八月一四日(頭書)「むろまち殿よりたうせんのものとて、からにしき、しゆす、しやなとしつかゐ五十たんまいる」
[2]
謡曲。四番目物。各流。
作者不詳。九州
箱崎のある男の
捕虜となっている唐人祖慶官人
(そけいかんにん)を慕って、その子ども二人が唐からやって来、官人は許されて帰ることになる。しかし、
こんどは日本でもうけた二人の子どもが悲しむので、官人は困りはて海に身を投げ死のうとする。箱崎の男はこれを見て日本の子どももともに行くことを許し、父子五人喜んで船出する。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
とうせん【唐船】[謡曲]
謡曲。四番目物。外山吉広作という。捕虜の唐人祖慶官人を慕い、二人の子供が唐から迎えに来る。日本でもうけた二人の子供が帰国を引き留め、官人は困って死のうとするが、日本の子供も同行を許される。
から‐ふね【唐船】
中国の船。外国の船。また、それにならってつくられた船。もろこしぶね。
「わが恋は博多を出づる―のゆたのゆたたひ追ひ風を待つ」〈夫木・三三〉
とう‐せん〔タウ‐〕【唐船】
1 中国の船。また、中国風の船。からふね。もろこしぶね。
2 中世、中国との貿易にあたった日本の船。からふね。
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世界大百科事典内の唐船の言及
【長崎貿易】より
…長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい,(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代,(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代,(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代,に区分される。(1)南蛮貿易期 開港後まもなく,一時イエズス会領になったので(1580),それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や,マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり,江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明,ついで清朝船だけでなく,東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し,さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。これに対し後発のオランダ,イギリスは,それぞれ1609年(慶長14),13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。…
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