土佐国(高知県)産のかつお節。『延喜式(えんぎしき)』に土佐から堅魚(かつお)献上のことがみえるが、土佐は古来かつお節の名産地であった。伝承では、天正(てんしょう)年代(1573~92)に高岡郡宇佐(うさ)浦(土佐市)の亀蔵(かめぞう)が紀州の漁夫からかつお節の製造を習い、5代目佐之助(さのすけ)が延宝(えんぽう)年間(1673~81)に製法を改良したという。亀蔵節の名のあるゆえんである。また一説では、1674年(延宝2)佐之助と紀州の漁夫甚太郎とが共同して改良したという。鰹(かつお)肉を骨付きのまま日干しか、煮て乾かしていたのを、骨を抜き、火力乾燥で貯蔵をよくし、カビによってタンパク質を変化させ、香気と風味をよくするように改良した。ただ亀蔵・佐之助の墓が宇佐に現存しているが、亀蔵は幕末、佐之助は明治まで生きているので、伝承に疑問が残る。ほかに享保(きょうほう)年間(1716~36)幡多(はた)郡中浜(なかのはま)浦(土佐清水市)の山崎儀右衛門(ぎえもん)によって製造された春日(かすが)節があり、亀蔵節とともに高い評価を受けた。かつお節は幕府への献上品、藩の統制品として厳重に管理された。明治以後安芸(あき)郡浮津(うきつ)(室戸(むろと)市)の米沢寅太郎(よねざわとらたろう)により米沢節が生産され、ともに土佐節の名を高めた。太平洋戦争後、真空包装の新節が製造され、従来の本涸(ほんこ)節にかわって販路を拡張している。
[山本 大]
『植田穂著『改良土佐節の研究』(1976・土佐市立市民図書館)』
江戸の古浄瑠璃の曲節。土佐少掾(とさのしようじよう)橘正勝が創始。彼は薩摩浄雲座の人形遣い内匠(たくみ)市之丞の子で,幼名虎之助。1664年(寛文4)江戸虎之助座を建てたが2年で休座,伊勢大掾座,杉山肥前掾座等に出演,寛文(1661-73)末ころ受領して土佐少掾橘正勝となった。宝永(1704-11)初年ころ没。別名土佐太夫。延宝~宝永(1673-1711)ころに江戸で大流行,1680年には江戸城二の丸で《酒天童子》を演じ,将軍の上覧を得て名声をあげた。彼の語り口は,豪快な薩摩系とやわらかな肥前節とをあわせたもので,曲節は豊かであったと伝える。曲は6段形式で,多くの作品が残され,またその一部を集めた段物集も多く出版された。しかし,話の筋が複雑で技巧を弄しすぎ,戯曲の統一性に欠け,純粋な世話物を生み出せなかったので,やがて上方で生まれた義太夫節に押されて滅びた。土佐太夫は4世まであったというが,宝暦(1751-64)ころにはすでに乞食の語り物になっていたという。
執筆者:竹内 道敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…浄雲には《はなや》などあり,その勇壮な硬派の流派(薩摩節)は2世薩摩その他に受け継がれ,明暦(1655‐58)から寛文(1661‐73)ころ以後,それぞれが流派を立てて活躍した。その中で注目されるものに金平(きんぴら)節(金平浄瑠璃),外記節,土佐節がある。金平節は大坂の伊藤出羽掾,井上播磨掾にも影響した。…
…また北隣の吾川郡伊野町と並ぶ土佐和紙製造の中心地で,手すき和紙業も残る。浦ノ内湾口に位置する宇佐は古くからのカツオ漁港で,土佐鰹節(土佐節)の発祥地ともいわれ,現在も水産加工業が盛んである。仁淀川河口の新居(にい)では施設園芸が盛んで,キュウリ,スイカなどを栽培する。…
… 漁業では古来カツオ漁が有名だが,近世以降,高岡郡宇佐(現,土佐市),幡多郡清水・中浜(なかのはま)(現,土佐清水市)などで盛んとなり,天保年間(1830‐44)には年漁獲高200万本の記録を残す。加工面では宇佐の播磨屋佐之助,中浜の山崎儀右衛門らが鰹節の改良と積出しにつとめ,江戸,上方で土佐節の名声を高めた。捕鯨業は近世初頭,安芸郡津呂(現,室戸市)の多田五郎右衛門が始めた。…
※「土佐節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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