力士が化粧まわしをしめて土俵に上がり,顔見世披露をすること。横綱土俵入りと幕内,十両の3種あるが,それぞれ取組前に行われる儀式である。江戸時代中期のころから,相撲番付上位力士たちが東西に分かれて登場し,四股踏み(力足)と手拍子を打ち,天長地久を祈り,地の邪気をはらい清めて安全を願ったが,この幕内力士土俵入りを採用して,ひとり土俵入りを行うようになったのは1789年(寛政1)の谷風梶之助からである。当時は腰にまとうしめ縄を〈横綱〉といい,尊称であっても番付上の地位の名称ではなかったから,横綱土俵入りというようになったのは,明治時代初期のころからである。現在,横綱土俵入りの型には,雲竜型と不知火(しらぬい)型の二つがある。一方の幕内土俵入りは,横綱土俵入りの祖型である四股踏みと手を前方に伸ばす動作を行っていたが,明治中期ごろになって上段の三役,前頭の枚数が増えたため,これまでのように,大きく四股を踏んで手を伸ばすのには土俵が狭いので,四股踏みは,化粧まわしの端をちょっとつまんで上げる動作に変え,大きく手拍子を打っていたのを軽く手を合わせることに簡略化するようになり,現在に及んでいる。なお,〈横綱土俵入り〉の名称は,相撲家元吉田追風の免許状には〈方屋入(かたやいり)〉と古くから書かれている。
執筆者:池田 雅雄
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力士が相撲(すもう)場へ入場すること。江戸勧進相撲の初め、相撲場を片屋(方屋)といい、力士が入場することを「片屋入り」といったが、1661年(寛文1)土俵が新設されてから、転じて土俵入りというようになった。土俵入りには「横綱土俵入り」と幕内・十両力士の各「土俵入り」がある。
元禄(げんろく)時代(1688~1704)は、大関以下が7、8人ずつ交替で土俵にあがり、呼出しの拍子木にあわせ、かしわ手を打ち、手をあげ、四股(しこ)を踏んで「天長地久」を祈り邪気を払う儀式であった。当時は場所ごとに出場力士が一定せず、登場する力士の顔ぶれを観客に「顔見せ」する目的があった。その後、1789年(寛政1)初めて谷風・小野川に横綱免許があり、これを機に、古くから大ぜいで土俵入りする形式を改め、横綱を締めた大関が、ひとりで土俵入りする儀式に転用された。明治中期になると、大関、三役以下の幕内力士が増員され、十両制度ができたため、四股を大きく踏み、手を高く差し伸べるには土俵が狭くなったので、現在行われているように四股踏みのかわりに化粧回しの上方を指で少しあげ、差し伸ばす手を上にあげる方式に簡略化するようになった。
[池田雅雄]
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(根岸敦生 朝日新聞記者 / 2007年)
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…横綱に関する古文書は少なく,1773年(安永2)に行司式守五太夫の書いた伝書によると,その起源は,城や屋敷を建てるときの地鎮祭に大関2人を招き,おはらいの地踏みを行ったが,その儀式免許を京都五条家が〈横綱之伝〉を許すといったことから始まったとされる。これを職業相撲の興行の土俵に移したのが吉田司(よしだつかさ)家で,89年(寛政1)11月場所中に,初めて谷風梶之助,小野川喜三郎の両関脇(実力大関)に,〈横綱〉というしめ縄を腰にまとって土俵入りする免許を与えた。当時,横綱は腰にまとったしめ縄をさすのみで,もちろん番付には関係がなく,また大関の称号でもなかった。…
※「土俵入り」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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