千年以上前に開かれたとされる兵庫県豊岡市の温泉街で、湯治に訪れた作家志賀直哉の小説「城の崎にて」の舞台としても知られる。中心部の川沿いには昭和初期に建てられた木造旅館が立ち並び、浴衣を着て歩く宿泊客の姿が多く見られる。県のホームページによると、2012年度には約78万6千人が訪れ、近年では香港や台湾を中心に外国人観光客も増えている。
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宇治
、但馬湯御下向留了云々」とあり、記主藤原頼長の父藤原忠実は但馬湯入湯を計画していたようである。「新後撰集」には「やよひの比、たじまのゆあみにまかり侍りける道にて、よみ侍りける」という詞書の西園寺実雄の歌がある。文永四年(一二六七)頃安嘉門院(後堀河天皇皇后藤原有子)も入湯に訪れており、二〇巻本「増鏡」の「北野の雪」に「その同じ頃、安嘉門院、丹後の天の橋立御覧じにとておはします、それより但馬の城の崎のいで湯めしに下らせ給ふ」とある。吉田兼好も訪れており、「花のさかりたしまのゆよりかへるみちにてあめにあいて」、一首詠んでいる(兼好法師集)。天文一九年(一五五〇)には「御屋形様」(鷹司忠冬か)の入湯に随行して飛鳥井雅教が当地に来遊、温泉寺で鞠を披露し、歌会を催している(温泉寺縁起帳紙背文書)。「言経卿記」慶長九年(一六〇四)五月一〇日条には下野殿(清須城主松平忠吉、徳川家康の第四子)が「但州湯治ニ御出也」とあり、「当代記」にも「清須下野主、但馬エ湯治」と記される。松平忠吉は瘡疾に悩まされており(武徳編年集成)、瘡に効くと喧伝されていた当温泉で湯治をしたのであろう。
江戸時代には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報