堀切村(読み)ほりきりむら

日本歴史地名大系 「堀切村」の解説

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]猪苗代町三郷みさと

下館しもだて村の北東、南流する長瀬ながせ川の東岸平地に位置する。本村の北に接して伯父おじくら、東方山麓に志津しづの各端村があった。また本村北東に位置する端村大水沢おおみずさわは幕末頃に内野うつの村端村であった大水沢新田とともに分村、水沢村となったと思われる。福島街道が通り、長瀬川に架かる同街道の舟橋が設けられていた。川東組に属した。いつの頃か磐梯山の山崩れで長瀬川が堰止められ一帯が水没した際、当地で堀を切り、湛水を長瀬川に流出させたのが村名の由来という(「新編会津風土記」「猪苗代町史」など)。また長瀬川の度重なる水害のため、多くの民家が本村から端村伯父ヶ倉に移転した(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに堀切・叔父倉と併記され、高四一九石余。

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]瀬高町河内かわち

浜田はまだ村の南西、矢部やべ川と飯江はえ川の合流点東側にある。南は飯江川を挟んで三池みいけ江浦えのうら(現高田町)。天正一一年(一五八三)頃の年月日欠田尻鑑種本領村数等覚書(田尻家文書/佐賀県史料集成七)には鷹尾たかお(現大和町)の支城の一として「堀切城番 福山将監」とあり、田尻氏の拠点の一であった。田尻氏が肥前へ移ったのちの同一二年九月五日、龍造寺氏の勢力を駆逐するため出陣した大友方の戸次道雪・高橋紹運の軍勢によって鷹尾から堀切に至る一帯が焼払われた(「高橋記」など)

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]葛飾区堀切一―五丁目

小谷野こやの村の東に位置し、東は宝木塚ほうきづか村、南は古綾瀬ふるあやせ川を隔て若宮わかみや村、隅田村(現墨田区)、北は下千葉しもちば村。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「堀切 十二丁 公田二丁一反半」とみえ、葛西かさい御厨の内であった。年月日未詳の葛西御厨入部注文写および葛西御厨田数注文写(ともに同書)には「堀切 十四町一段半」とある。北条氏所領役帳には大胡重治の所領として「四拾五貫文 葛西堀切 此内廿二貫五百文 当年改而被仰付半役」とみえる。田園簿に村名がみえ、田五〇五石余、畑七六石余。「風土記稿」によれば家数六三。南境を流れる古綾瀬川は幅一二間、三才橋が架かっていた。

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]修善寺町堀切

狩野かの川の支流山田やまだ川流域の谷間に開けた村で、東は熊坂くまさか村、北は三津みと村など(現沼津市)。江戸時代は君沢くんたく郡に属する。慶長一二年(一六〇七)検地帳には「狩野庄熊坂之内堀切」、元和四年(一六一八)の熊坂起間帳には「熊坂本郷分堀切本郷分」とあったといわれる(増訂豆州志稿)。寛永三年(一六二六)の小林重信制札(益山寺蔵)には当地益山ましやま寺が「熊坂之内」と記される。同二一年熊坂村から分離したという(増訂豆州志稿)

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]西根町堀切

西はりよう川を隔てて平館たいらだて村、南から東にかけては長者ちようじや山・白屋しらや山を界して大更おおぶけ村、北は帷子かたびら村。当村南の字山崎やまざきで涼川があか川に合流する。もと一戸氏支流の堀切氏所領で、堀切兵庫政敏が南部利直から当村に二〇〇石の領地を宛行われていた(参考諸家系図)。堀切氏の所領は承応二年(一六五三)没収され、八戸弥六郎家臣となる。

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]黒部市堀切・轟下とどろきした

北は中新なかしん村、東は堀切新村。地名は沼沢地帯を掘割って開拓されたことにちなむといわれる。「重深鈔」の奥書に「至徳四年八月廿二日、於越中国堀切御談義所高峰寺、以盛範御自筆本、書写畢、円海」と記され、すでに至徳四年(一三八七)に当地に談義所があった。高峰こうほう寺は現在も高野山真言宗寺院として残り、八心大市比古やごころおおいちひこ神社の別当寺であった。

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]田舎館村大曲おおまがり 堀元ほりもと

浅瀬石あせいし川下流に発達した河岸段丘上にあり、南は大曲村。通称ハッケの崖に広がる早稲田わせだが大曲堰の開削・改修によって水田として開かれたと思われる。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以降の新田として高九八・四石とある。貞享四年の検地帳に村高二〇一・五九五石、うち田方一四町一反四歩、一六三・五三七石、畑方七町五反二畝九歩、三八・〇五八石とあり、ほかに永荒畑一畝余、地名として早稲田・川原田かわらだ舟橋ふなはし・堀元がある。

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]大多喜町堀切

三条さんじよう村の西、西畑にしはた川の支流堀切川右岸に位置する。元禄郷帳などには村名がみえず、江戸時代を通して中野なかの村に含まれ、領主も同じであった。文禄三年(一五九四)二月二八日の西之畑之内堀切村坪入改帳写(吉野家文書)では永高三貫四〇三文、名請人一二、屋敷地五筆で名請人五。寛永一〇年(一六三三)の西之畠村々高割帳(君塚家文書)では高二四石余、幕末まで同高。

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]秩父市堀切

太田おおた村の北東にあり、東は小柱おばしら村、南は蒔田まいた村・品沢しなざわ村。北端は赤平あかびら川を境に大淵おおふち(現皆野町)。田園簿には高四六石余・此永九貫三八七文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高六八石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復す。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領となる(「風土記稿」「郡村誌」など)

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]渥美町堀切

太平洋岸に臨み、北は亀山かめやま村に接し、東は小塩津こしおづ村に、西は日出ひい村・伊良湖いらご村に隣接する。当村郷倉ごうぐらに存する網仲間の規約書によれば、地曳網が主で、寛文元年(一六六一)の規約には網元三一名、天明五年(一七八五)には一六名の署名があり、漁業は漸次衰退した(渥美郡史)

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]相良町片浜かたはま

大磯おおいそ村の北に位置し、北東は鹿島かしま(現榛原町)。東は駿河湾に面し、南北に田沼たぬま街道が通る。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高六八石余。正保郷帳では田方五九石余・畑方八石余、幕府領、ほかに阿弥陀領四斗がある。領主の変遷は坂井さかい村と同じ。元禄郷帳では高六九石余。

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]糸魚川市堀切

道明どうみよう村の南、はや川の氾濫原上にあり、下流から檜葉木ひばのき・堀切の集落からなる。始め早川東岸にあったが、水害にあい、西岸の現在地と上流の中川原なかがわら新田に分散した。正保国絵図に高四八石余とある。延宝五年(一六七七)の村々高付之帳によれば、地高一二石五斗余・山高二斗、百姓一名が早川谷大肝煎の支配下である(糸魚川市史)

堀切村
ほりきりむら

[現在地名]金沢市堀切町

清水谷しみずだに村の北、切山きりやま川左岸に位置。正保郷帳では曲子原まげしばら村と並記され、高一二一石余、田方四町七反余・畑方三町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高六八石、免四ツ六歩、小物成は山役一六八匁・蝋役一匁・野役五匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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