塩の取引商人。日本では塩は海岸地方でのみ生産されるといった自然的・地理的制約があるので,山間・内陸地方の需要を満たすため,製塩地と山間・内陸地方との間に古くから塩の交易路,すなわち塩の道が開かれ,そこを塩商人が往来し,各地に塩屋・塩宿が生まれた。塩の取引には,古代から現代に至るまで製塩地の販女(ひさぎめ)・販夫が塩・塩合物をたずさえて,山間・内陸地方産の穀物・加工品との物々交換を行ってきた。とくに中世に入って瀬戸内海沿岸地方荘園から京都・奈良に送られていた年貢塩が途中の淀魚市などで販売されるようになると,大量の塩が商品として出回るようになり,その取引をめぐって各種の塩売商人が登場した。塩の荘園として有名な東寺領伊予国弓削島(ゆげしま)荘から送られてきた年貢塩を,問丸の一人と思われる備後弥源次が委託を受け1俵200文で販売したが,それを仕入れた京都の七条坊門塩屋商人は,その2,3日後京都で倍の価格で販売していた。一方瀬戸内海沿岸の製塩地には,製品塩の集荷商人,彼らから仕入れた塩を転売する荘官的商人まで現れた。
室町時代,年貢塩に代わって商品塩の中央への輸送が盛んになると,市における販売座席,販売地域,輸送路,営業形態をめぐって,それぞれ特権を主張する塩座商人が中央都市をはじめ地方にまで出現してくる。塩の主要流通路や市場での塩取引には,塩座主導のもとに,各種の塩売が従事していた。製塩地の塩商人によって集荷された塩は,塩船に積みこまれて兵庫・堺・淀魚市などに着岸し,関所代官や問丸に関銭を支払って陸揚げされ,洛中洛外の塩座,木津川をさかのぼった木津の塩座などに引き取られ,奈良ではそれらを仕入れた塩本座問丸の店売,振売専門の塩シタミ座,南市の塩座などによって小売商人,さらに消費者に供給されていた。1445年(文安2)の〈兵庫北関入船納帳〉によると,淡路,播磨,備後,讃岐,周防,阿波など内海沿岸産の莫大な塩が,内海諸港津所属の船で,1年を通じて兵庫北関に着岸されていたことが判明する。北陸・東海道産塩は,近江の粟津供御人の塩座,大津塩座によって京都に搬入された。滑谷口(汁谷口)(しるたにくち)には宿問と称する卸売商人がいて,そこを通過する塩に課税していた。近江などでは北陸・東海道産塩を山越四本商人らが独占的に搬入し,塩宿や寄子・足子と呼ばれた小売商人に,一定の座役銭納入を条件にして卸売していた。戦国時代,塩は戦略的な商品の一つとして重視され,各地の戦国大名によってしばしば荷留の対象とされ,領内の取引には御用商人の塩座商人が統制に当たる例も現れた。しかし多くの地方では,製塩地から塩の道を通って送られてくる塩売によって,塩の供給はつづけられていた。
執筆者:佐々木 銀弥
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…山地人の交易として,わんなどの木製品を売り歩く木地屋をはじめ,漂泊職人も箕直し,鍛冶,桶直しなどの賃仕事に従事するかたわら,各地の産物を売り歩いた。行商人は特別な霊的能力をもつと考えられたらしく,塩売行商人にそのことがもっとも強くまつわりついていた。九州では塩売をシオトトと呼んで,子どもをじょうぶに育てるため,養い親に頼む習慣がある。…
…また楽市・楽座政策は,むしろ塩座すなわち御用商人の特権を新たに確認するような作用を及ぼした。塩売
[近世]
江戸時代にはいると,寛文年間(1661‐73)には全国海上交通網の整備によって,瀬戸内塩が全国市場に流通し,全流通量の90%を占めるようになり,恒常的に塩廻船が需要地に直送した。生産地からの出荷は,貢租を納めたあと自由搬出される型と,藩専売制によるものとがあった。…
※「塩売」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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