瀬戸内海のほぼ中央、備讃瀬戸の
瀬戸内海は古くから海賊・水軍の活躍の場でもあり、塩飽もそれらの拠点の一つといえる。寛元四年(一二四六)当国御家人藤左衛門尉(香西家資)は幕府の命をうけ海賊追捕を行い(「吾妻鏡」同年三月一八日条)、香西氏略系譜(香西記)によると忠資が北条時頼から讃州諸島の警衛を命じられ、子弟を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
瀬戸内海の備讃瀬戸西部海域に散在する28島の諸島をいい,香川県坂出市,丸亀市,多度津町に属する。〈しあくしょとう〉とも呼ぶ。おもな島は塩飽七島と呼ばれる本島(ほんじま),広島,牛島,手島(以上丸亀市),櫃石(ひついし)島,与島(坂出市),高見島(多度津町)である。古来,内海の水運の拠点であった。明治以来,出稼ぎの島となり,過疎化が進んだが,1988年4月に開通した本州四国連絡橋児島~坂出ルートの瀬戸大橋の橋脚島に櫃石島,岩黒島,与島などがなり,本島をはじめ各島は観光開発に熱心である。一部の島には両墓制の習俗が残っている。塩飽の名は,東西から満潮の出あう所で潮が湧き上がることからきたといわれる。坂出,丸亀,多度津の各港から船便がある。
執筆者:坂口 良昭
塩飽島は古来,海上交通の要地として著名。《万葉集》柿本人麻呂の古歌に讃岐の狭岑島とあるのは沙弥島(坂出市)のことである。藤原純友の乱,治承・寿永の内乱の戦場ともなった。《法然上人行状画図》に1207年(承元1)3月讃岐に配流となった法然は塩飽に立ち寄り,地頭駿河権守高階時遠入道西忍の館で好遇をうけたとある。46年(寛元4)3月,《吾妻鏡》に海賊追捕の功労者としてみえる讃岐国御家人藤左衛門尉(香川郡司家資)の子孫が島年寄宮本氏,吉田氏の祖という。また鎌倉末期北条氏被官として活躍する塩飽氏も塩飽の出身であろう。南北朝期にも名がみえ,《勝山小笠原古文書》1344年(興国5・康永3)11月の小笠原貞宗譲状に〈讃岐国塩飽荘〉とある。室町期には細川氏の支配下に入り,戦国期にはその部将香西元成の下に宮本氏,吉田氏などが船将として行動している。また塩などの物資の輸送にも活躍し,1445年(文安2)の〈兵庫北関入船納帳〉に多数の塩飽籍船を認めることができる。1577年(天正5)3月功により織田信長より朱印状をうけ堺津における塩飽船の自由が認められた。豊臣秀吉より九州出軍の船方として船10艘,水主(かこ)50人が割りあてられ,90年2月に塩飽島中宛てに下付された秀吉の朱印状では1250石が島中船方650人に配分された。以後,朝鮮出兵などにも活躍。秀次の朱印状をうけ,関ヶ原の戦後の1600年(慶長5)9月には徳川家康より,30年(寛永7)8月には秀忠から同様の朱印状をうけ,幕府の御用船方として領地を安堵された。この650人を大名・小名に対して人名(にんみよう)とよぶ。
人名は各種の幕府の船役・水主役をつとめる代りに1250石の土地の領知権と周辺海域の漁業権などを認められていた。朱印状は本島勤番所(島治役所)の石蔵に保存・相伝され,塩飽島中共有文書として著名である。島治は大坂の幕府船方,ついで町奉行所の管轄下に宮本・吉田両氏ら在島の年寄と各島浦の庄屋が寄合協議して運営された。はじめ世襲の年寄の勢力が強かったが,江戸後期には廻船業の盛衰に関係して新旧の勢力交代がみられ,経済力の豊かな与島の岡崎氏,牛島の丸尾氏などが入札により就任した。しかし人名はしだいに株化し,一人持ち,分割所持,共同持ちなどに分かれ,一人持ちの多い笠島,泊浦などの年番庄屋の発言権が強まり,年寄の権限は縮小された。島の生業ははじめ廻船業が主であったが,船数はしだいに減少,大工,水夫などとして他出するものがふえた。しかし幕末に軍艦の乗組員として塩飽水夫は重用され,1860年(万延1)渡米した咸臨丸の水夫50人中35人を占めている。また漁業も古来タイ,サワラなどの好漁場が多く,その経営と下津井などの他領船から入漁料を徴収し島中財政の財源としていた。その後廃藩置県により丸亀県に,ついで香川県仲多度郡に属し,町村制の施行により,領知権としての人名の特権も消滅したが,人名株は財産の一部として存続した。
→人名制
執筆者:五味 克夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
瀬戸内海中央部、岡山県と香川県との間の備讃(びさん)瀬戸にある島嶼(とうしょ)群。「しあく」ともいう。香川県に属す。28の島々からなるといわれるが、中心になるのは塩飽七島とよばれる、本島(ほんじま)、牛(うし)島、広島、手島(以上丸亀市)、櫃石(ひついし)島、与(よ)島(以上坂出(さかいで)市)、高見(たかみ)島(多度津(たどつ)町)である。「塩飽」という地名は、満潮時に島々の間に潮が沸き立つさまからきたといわれる。
古来優れた船乗りが多く、中世には塩飽水軍は守護大名の水運を担当し、かつ勘合貿易にも参加した。また豊臣(とよとみ)秀吉の九州や朝鮮への出兵にも随行するなど功績が大きく、秀吉により塩飽1250石の自治権を650人の船方(人名(にんみょう)と称する)へ与える朱印状が出された。これは江戸時代にも引き継がれ明治維新まで続いた。人名から選ばれた4人の年寄が島々を統治し、本島に勤番所が置かれた。塩飽には千石船も多く、西廻(にしまわり)航路で活躍したが、幕末以降は衰え、舟子としての出稼ぎが多くなった。1860年(万延1)に太平洋を横断した咸臨丸(かんりんまる)の舟子の多くは塩飽出身者であった。なお、人名以外の島民は間人(もうと)とよばれて差別され、1868年(慶応4)には人名と間人が衝突する小坂(こさか)騒動が起きた。
過疎化が進んでいるが、櫃石島、岩黒(いわぐろ)島などは本州四国連絡橋の児島(こじま)―坂出ルートにあたり、また本島は観光開発が進んでいる。本島の港町笠島(かさしま)地区は、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
[坂口良昭]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…古代以来の〈土産〉=特産物として,醬大豆,塩,菅円座,金漆,陶器などがある。考古学の面では,北西部の塩飽(しわく)諸島に膨大な旧石器包蔵層が確認され,また弥生時代には北西部荘内半島の紫雲出(しうで)遺跡は高地性集落の典型として知られている。このほか,師楽(しらく)式土器をともなう製塩遺跡や島嶼部の祭祀遺跡が地域的特性を示している。…
…江戸時代,讃岐塩飽(しわく)諸島(丸亀市)にみられた人名の制度。人名とは1590年(天正18),豊臣秀吉から検地高1250石の領知を認められた塩飽島中船方650人のことで,その数は本島の泊,笠島浦をはじめ塩飽諸島の20の浦々に90から7の範囲で配分されていた。…
※「塩飽諸島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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