デジタル大辞泉
「大寧寺」の意味・読み・例文・類語
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だいねい‐じ【大寧寺】
- 山口県長門市深川湯本にある曹洞宗の寺。山号は東盧山。または瑞雲山。正称は大寧護国禅寺。応永年間(一三九四‐一四二八)守護鷲頭弘忠が石屋(室)真梁(せきおくしんりょう)を開山に創建。天文二〇年(一五五一)大内義隆がその臣、陶晴賢に襲われ自刃した所。のち毛利元就が再建。以後、毛利氏の菩提寺となった。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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大寧寺
たいねいじ
[現在地名]長門市深川湯本
深川川の支流大寧寺川の西側にあり、俵山を経て山陽側へ抜ける赤間関街道(北道筋)が境内を通り、大寧寺山を負う。曹洞宗。山号を瑞雲山、一に廬山ともいい本尊は釈迦如来、脇士文殊菩薩・普賢菩薩。「だいねいじ」ともいう。
応永年間(一三九四―一四二八)長門守護代鷲頭肥前守弘忠が石屋真梁に帰依して創建。石屋の法嗣を智翁永宗・定庵殊禅・竹居正猷が相継いだ。竹居が住山の頃、関東管領上杉憲実が退隠して仏門に入り、高岳長棟と号し、諸国を歴遊、竹居に法を問い、塔頭槎留軒に住み、文正元年(一四六六)この地で没した(竹居禅師塔銘)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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大寧寺 (たいねいじ)
山口県長門市深川湯本にある曹洞宗の寺。応永年間(1394-1428)長門守護代鷲頭弘忠が曹洞宗通幻派の石屋真梁を開山として建立したのが起り。同派の防長への教線進展の一拠点となった。弘忠の死後も守護大内氏歴代の帰依を受け,その積極的保護のもとに竹居正猷,器之為璠などの名僧が相次いで住持となり,諸国からその高風を慕って来寺するもの多く,寺勢は大いに高まった。その後,1551年(天文20)に外護者大内義隆が重臣陶晴賢の謀反にあって当寺で自害した際,堂宇も兵火によって灰燼(かいじん)に帰し,一時廃絶の危機に瀕した。しかし,ほどなく晴賢を討って防長を配下に入れた毛利元就によって再建され,さらにその後の歴代毛利藩主もこれを厚く遇したため,江戸時代においても近隣の禅宗寺院中では最も多くの修行僧を擁した。また,末寺は九州から壱岐,対馬にまでおよび,〈中西国の大僧録〉として西日本曹洞宗寺院を統轄した。
執筆者:児玉 識
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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大寧寺【たいねいじ】
山口県長門(ながと)市にある曹洞宗の寺。応永(おうえい)年間(1394年―1428年)長門守護代鷲頭弘忠(わしずひろただ)が石屋真梁(せきおくしんりょう)を開山として創建。守護大内氏の保護を受け,名僧も輩出して栄えたが,1551年大内義隆(よしたか)が陶(すえ)氏の謀反にあって当寺で自害した際,堂塔も兵火で消失。その後毛利元就(もとなり)により再興された。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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大寧寺
長門市深川にある寺で、1410年に建てられました。1551年に陶晴賢[すえはるかた]が反乱を起こした時に、大内義隆[おおうちよしたか]が逃げこんだのですが、周りを敵に囲まれてしまったため、自刃しました。そのときに大寧寺も焼けてしまいましたが、毛利元就[もうりもとなり]が建て直しています。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
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大寧寺
山口県長門市にある曹洞宗の寺院、瑞雲萬歳山大寧護国禅寺の通称。1410年開創。1551年、大内家当主・大内義隆が自刃した地。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内の大寧寺の言及
【湯本[温泉]】より
…深川(ふかわ)川の上流音信(おとずれ)川に沿う閑静な谷間の温泉町で,JR美祢(みね)線長門湯本駅から徒歩5分。近くに古刹[大寧寺]があるが,その3世定庵のとき,住吉明神の神託によって湧出したと伝え,泉源は大寧寺が管理した。泉源は八つで,流紋岩の断層帯から湧出する。…
※「大寧寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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