大友宗麟(読み)おおともそうりん

精選版 日本国語大辞典 「大友宗麟」の意味・読み・例文・類語

おおとも‐そうりん【大友宗麟】

戦国大名。義鑑の子。名は義鎮(よししげ)。北九州六国を制圧し、大友氏全盛期を実現。朝鮮、明、ポルトガルと交易。一方、キリスト教帰依(きえ)し、大村氏有馬氏とともにローマ使節を派遣。島津氏との対決のなかで衰運に向かう。法名瑞峯院瑞峯宗麟。洗礼名はドン=フランシスコ。享祿三~天正一五年(一五三〇‐八七

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デジタル大辞泉 「大友宗麟」の意味・読み・例文・類語

おおとも‐そうりん〔おほとも‐〕【大友宗麟】

[1530~1587]戦国時代の武将。豊後ぶんご臼杵城主。名は義鎮よししげ。キリスト教に入信し、洗礼名フランシスコ。北九州6か国を支配。ローマ教皇に少年使節を派遣。天正6年(1578)島津氏と戦って大敗し、以後衰退した。→天正遣欧使節

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大友宗麟」の意味・わかりやすい解説

大友宗麟
おおともそうりん
(1530―1587)

戦国大名。大友氏20代義鑑(よしあき)の長子として豊後府内(ぶんごふない)(大分市)に生まれる。幼名塩法師丸(しおほうしまる)。元服して義鎮(よししげ)。1550年(天文19)家督を継ぐ。1562年(永禄5)怡雲(いうん)(宗悦(そうえつ))和尚(おしょう)(1518―1589)について剃髪(ていはつ)し瑞峯(ずいほう)宗麟となり、以後三非斎(さんぴさい)、圓斎(えんさい)、府蘭(ふらん)、宗滴(そうてき)と称す。この間、来日中のフランシスコ・ザビエルと接してキリスト教布教を保護し、自らも1578年(天正6)受洗してドン・フランシスコの洗礼名を受けた。領内にはポルトガル船の来航もあり、朝鮮貿易も行った。1582年には大村氏、有馬氏とともに天正遣欧使節をローマ法王のもとに送った(宗麟の発意であったかについては疑いがもたれている)。一方、九州6か国(豊後(ぶんご)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご))の守護職を手中に収めて大友氏の最盛期をもたらした。しかし、1563年臼杵(うすき)の丹生島(にうじま)城に移り、府内に長子義統(よしむね)を置いて二頭政治となり、1578年(天正6)薩摩(さつま)の島津氏と日向(ひゅうが)耳川(みみかわ)で合戦して大敗した。これ以後家臣団の分裂、動揺が激化し、1586年島津勢が豊後に進攻するに及んで、宗麟自ら大坂城に赴き豊臣秀吉(とよとみひでよし)の救援を求めた。翌1587年秀吉の九州平定が行われ、その所領は義統に豊後を、宗麟に日向を与える旨伝えられた。しかし宗麟はこれを辞退し、同年5月津久見(つくみ)で病死した。

[芥川龍男 2018年3月19日]

『芥川龍男著『戦国史叢書 豊後大友氏』(1972・新人物往来社)』『外山幹夫著『大友宗麟』(1975/新装版・1988・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「大友宗麟」の意味・わかりやすい解説

大友宗麟 (おおともそうりん)
生没年:1530-87(享禄3-天正15)

戦国期に豊後を本拠とした大名。義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ),入道して三非斎,府蘭,円斎,宗滴と号す。キリシタン大名と呼ばれるが受洗は隠居後。受洗名フランシスコ。1582年(天正10)大村氏,有馬氏とともに天正少年使節団を派遣したといわれるが,使節持参の宗麟書状は偽文書で,少なくとも宗麟に関するかぎり使節は偽使。キリシタンに好意を示した動機は明らかに貿易が目的で,豊後府内沖ノ浜などを南蛮船の貿易港とし,フィリピン等へ貿易船を派遣するなど十分な成果をあげた。また博多の一部を教会領に寄進している。大内義隆滅亡後,弟晴英を後継者に送ったが,1557年(弘治3)毛利氏に追われる義長(晴英)を見殺し,死の直後に豊前,筑前,肥前を制圧,旧領と合わせ6ヵ国を握り各国守護に任じ,潜在主権として長門・周防守護にも任じ,九州探題の名称も得た。68年(永禄11)毛利氏の豊前,筑前への侵攻に対抗して筑後高良山へ出陣,筑前立花城を中にはさんでの総力戦を指揮,同年10月大内輝弘を周防へ送り込み山口を占領させ,撤退する毛利勢を討って筑前を回復したが豊前北部は毛利支配下に残った。75-76年(天正3-4)ころ引退。78年受洗。同年嫡子義統(よしむね)の大敗により80年政界復帰。はじめ義統の共同統治者として,後には後見役的立場で義統を助け,86年島津氏の圧力にたえかねみずから上京,豊臣秀吉に援を請うたが,このとき国元へ送った書状は秀吉の大坂城のようす,宗麟への接待,秀吉やその側近のようすなどを活写している。秀吉の島津制圧直後に死亡。内政面では有力庶家や庶家出身者を年寄に登用し,また地域的軍事・行政権をもつ城督を新征服地を中心に設置,行政軍事組織の改変を行った。なお,キリシタンとなってから寺社を弾圧,破壊,放火したという宣教師の報告や伝説が多いが,大名時代にこうした行動はまったく見えず,その後のものは織田信長をまねた義統による寺社圧迫や兵火にかかったのが誤り伝えられた場合がほとんどである。
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百科事典マイペディア 「大友宗麟」の意味・わかりやすい解説

大友宗麟【おおともそうりん】

戦国時代のキリシタン大名。名は義鎮(よししげ)。教名フランシスコ。1550年家督を継ぎ,のち北九州6ヵ国の守護となり,大友氏の最盛期を築く。キリスト教に帰依しキリシタンを保護し,ポルトガル貿易を行い,府内(大分市)を西洋文化の中心地とした。1582年大村・有馬氏とともに天正遣欧使節を派遣。
→関連項目伊東マンショ大友氏大村純忠カブラルザビエル

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大友宗麟」の解説

大友宗麟
おおともそうりん

1530.1.3/5.4~87.5.23

戦国期の豊後国の武将。大友義鑑(よしあき)の長子。幼名塩法師丸,のち五郎。諱は義鎮(よししげ)。左衛門督。円斎・三非斎。1550年(天文19)宗麟廃嫡を企てた父義鑑が重臣に殺害された大友二階崩(にかいくずれ)の変後,家督を継ぐ。周防大内家家督を継いだ弟の義長が57年(弘治3)毛利氏に討たれると,同氏に内応した豊前・筑前両国の領主らを制した。59年(永禄2)豊前・筑前・筑後各国守護職をえ,豊後・肥後・肥前と合わせて6カ国守護。将軍足利義輝から九州探題に任じられる。70年(元亀元)毛利氏と和睦。毛利軍の豊筑撤兵で大友氏は全盛期に入った。76年(天正4)には家督を長子義統(よしむね)に譲るが,実権は保持。78年に洗礼をうけ,ドン・フランシスコと名のる。同年の耳川合戦(現,宮崎県木城町)で島津氏に大敗し,以後,離反者があいつぎ,急速に衰勢にむかった。86年の島津氏の侵攻で分国は崩壊,本拠豊後府内まで攻めこまれたが,87年豊臣秀吉の九州進攻に救われ,子義統に豊後一国が安堵された。同年病死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大友宗麟」の意味・わかりやすい解説

大友宗麟
おおともそうりん

[生]享禄3(1530).5.4? 府内
[没]天正15(1587).5.23. 津久見
戦国大名。義鑑の子。幼名は塩法師丸。天文9 (1540) 年2月3日元服。足利義晴の1字をもらって義鎮 (よししげ) と名のった。同 19年父の跡を継ぎ,豊後,筑後,肥後,肥前,豊前の6ヵ国を領し,同 21年には弟晴英 (のち義長) が大内氏の家督を継いで,大友氏全盛期を迎えた。永禄5 (62) 年,出家して休庵宗麟と号した。朝鮮貿易を行う一方,キリスト教に帰依してポルトガルとの交易をも積極的にした。洗礼名をフランシスコと称し,天正 10 (82) 年には大村,有馬氏とともに少年使節をローマへ派遣した (→天正遣欧使節 ) 。しかし,これ以前の同6年島津氏に大敗してから次第に衰えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大友宗麟」の解説

大友宗麟 おおとも-そうりん

1530-1587 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)3年生まれ。大友義鑑(よしあき)の長男。豊後(ぶんご),肥後など九州6ヵ国の守護と九州探題をかねる。キリスト教を保護し,南蛮貿易をおこなう。天正(てんしょう)6年受洗,10年少年使節をローマにおくる。薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津氏の圧迫をうけ,豊臣秀吉の救援をもとめた。天正15年5月23日死去。58歳。名は義鎮(よししげ)。別号に宗滴,三非斎など。洗礼名はフランシスコ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大友宗麟」の解説

大友宗麟
おおともそうりん

1530〜87
戦国・安土桃山時代のキリシタン大名
名は義鎮 (よししげ) 。豊後を中心に北部九州を支配。1551年ザビエルを府内に招いてキリスト教布教を許可し,みずからも受洗してフランシスコと称す。'82年には天正遣欧使節をローマに派遣。'78年島津氏に敗北してから次第に勢力範囲をせばめた。

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367日誕生日大事典 「大友宗麟」の解説

大友宗麟 (おおともそうりん)

生年月日:1530年1月3日
戦国時代;安土桃山時代のキリシタン;大名
1587年没

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世界大百科事典(旧版)内の大友宗麟の言及

【大友氏】より

…また領内で間別調査(一種の家屋調査)を行い間別銭を賦課した。その子大友宗麟(義鎮)は豊前,筑前,肥前,肥後を制圧,各守護となり,名目的ながら九州探題,長門・周防守護にも任じ,歴代で最大の支配地域をつくりあげ,城督制を採用して地方行政組織および軍事編制を改め,また博多,豊後府内の沖ノ浜などを南蛮船の寄港地とし,フィリピン等へ貿易船を送った。隠居後に受洗。…

【豊後国】より

…さらに16代政親と17代義右父子の対立へと内紛は続いた。戦国期になると大友二階崩れの変を経て,21代大友宗麟の時代に大友氏の全盛期を迎えた。宗麟は1559年(永禄2)までに豊後のほかに豊前,筑前,筑後,肥前,肥後の九州北半6ヵ国の守護職を得,九州探題職にも補せられた。…

※「大友宗麟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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