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1657年(明暦3)の江戸の大火。江戸時代最大の火災で,江戸三大火の一つ。振袖火事,丸山火事ともいう。前年11月以来80日も雨が降らず乾燥しきっていたうえ,北西風が激しく吹く1月18日午後2時ごろ,本郷丸山から出火,本郷・湯島・駿河台・神田・日本橋・八丁堀・霊岸島から佃島・石川島まで延焼,また駿河台から柳原・京橋・伝馬町・浅草門へひろがり,隅田川を越えて牛島まで飛火して,翌19日早朝鎮火した。また19日午前10時ごろ,伝通院表門下の新鷹匠町より出火,北西の強風にあおられ,小石川・飯田町から田安門・竹橋門内の大名・旗本屋敷を焼き,譜代大名の懸命な防火にもかかわらず,正午過ぎ江戸城の天守閣に火が入って焼け落ち,本丸・二の丸も焼失して,将軍徳川家綱は西の丸に移った。火は常盤橋・鍛冶橋・数寄屋橋門内の諸大名の邸宅を焼き,夕刻から変わった西風により八代洲河岸から中橋・京橋・新橋・鉄砲洲に及んだ。さらに夕刻,別の火災が麴町からおこり,急に変わった北風により桜田・愛宕下・芝に移り,増上寺も大半を焼いて,海岸にいたり,20日朝ようやく完全に鎮火した。この火災は江戸の大半を焼き,焼失した大名屋敷160,旗本屋敷770余,寺社350余,町屋は400町余,橋60余,土蔵も9000余のうち残ったのは10分の1もなかった。死者は10万人を超したという。20日から21日にかけては寒気と大吹雪で凍死する罹災者が続出した。幕府は救小屋を設け,粥の施行をして救済にあたった。また幕府は罹災した大名には参勤交代で出府することを免除したり,帰国させたりするとともに,10万石以下の大名には恩貸銀,旗本・御家人には賜金を行った。そのほか,江戸市中へも銀1万貫が下賜された。
大火を機に,江戸の都市計画が進められた。江戸城内にあった三家をはじめとする大名屋敷はすべて城外に替地を与えられて移転することとなり,旗本屋敷や町地も割替が行われ,寺社も外辺部の新開地に移転させられたものが多かった。市街地の復興とともに広小路や火除地(ひよけち)の設定等,防災化も行われた。翌々年,隅田川には大橋(両国橋)がかけられ,本所・深川にも町地が拡大した。大火は江戸の火消制度にとっても大きな転機となり,翌年定火消が設けられた。出火の際,由井正雪の残党の所業という流言がとび,事実,大火の際放火犯20名が捕らえられ処刑されているが,この時期の江戸はまだかなり不安定な状況もあった。
振袖火事の名称の由来は,1枚の紫ちりめんの振袖をめぐり,それに手を通した3人の娘が3年つづけて同じ日に同じ年齢で死んだことから,本妙寺の和尚が振袖の不思議な因縁を恐れてその振袖を焼いたところ,風にあおられて舞い上がり,本堂に燃えついて大火となったからというが,史実とはいいがたい。火災は江戸時代には現代では想像もできぬほどの関心事であったから,この江戸最大の大火にいろいろな因縁話がつけ加えられて巷間にひろまったものと思われる。
→回向院(えこういん)
執筆者:池上 彰彦
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1657年(明暦3)1月18、19日の両日にわたる江戸の大火。振袖(ふりそで)火事、丸山火事ともいう。18日の午後2時半すぎ、本郷丸山町の本妙寺から出火、おりからの大風のため翌19日にかけて本郷、湯島、駿河台(するがだい)、神田橋、一石(いちこく)橋、八丁堀、霊岸嶋(れいがんじま)、佃島(つくだじま)から深川、牛島新田に延焼した。一方、駿河台から北柳原、京橋、伝馬(でんま)町、浅草門にも火が及んだ。19日も風はやまず、小石川新鷹匠(しんたかじょう)町から出火、小石川、北神田から江戸城本丸、二の丸、三の丸を延焼した。さらに同日夜麹町(こうじまち)五丁目より出火、桜田一帯、西の丸下、京橋、新橋、鉄砲洲(てっぽうず)、芝に及んだ。火元は以上三か所である。類焼地域は江戸全市に及び焼死者は10万人を超えた。寒気と21日の大吹雪のため罹災(りさい)者の凍死する者が多く、幕府は救(すくい)小屋を設けたり粥(かゆ)の施行(せぎょう)をして救済にあたった。この大火を機に江戸の都市計画が進められ、大名、旗本宅地の引き替え、寺社の移転、火除地(ひよけち)、広小路の新設など多方面に及んだ。
振袖火事の名称の由来は、ある若衆を見そめた16歳の娘が、それがもとで病死したので菩提寺(ぼだいじ)の本妙寺に葬った。その娘が着ていた紫縮緬(ちりめん)の振袖の古着を着た2人の娘はいずれも16歳で、しかも3年続けて同じ月日に次々と病死した。命日に集まった三家が不思議な因縁に驚き、問題の振袖を焼き捨てたところ、火がついたまま舞い上がって本妙寺本堂に燃え移り、ついに江戸中を焼き払ったためと伝えられている。しかし史実とはいいがたい。
[南 和男]
『黒木喬著『明暦の大火』(講談社現代新書)』
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…貧農の子で,13歳のとき江戸に出て車力を業とし,元服して十右衛門と称した。人夫頭や材木屋となり,江戸の明暦の大火(1657)に際し木曾山林を買い占め莫大な資産をつくったという。さらに土建業を営み,幕府や諸大名の工事を請け負った。…
… 一方において民間需要が増加することによって職人も集団居住から市中散在居住に移行していった。江戸では明暦の大火(1657)を画期とし,入込職人も大量にのぼったため散在居住が決定的になった。また幕府機構も寛永(1624‐44)から元禄(1688‐1704)にかけて,作事方,賄方,細工方,小普請方などの職制が整備されていき,軍事上の編成から平時の行政を推進する官僚的機構に移行し,その末端職制に御用職人も組みこまれていった。…
※「明暦の大火」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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