江戸後期の国学者。上野(こうずけ)国(群馬県)館林(たてばやし)藩士信勝の長男。幼名を瞭または雄、長じて小善、多門、万と称し、諱(いみな)は国秀、字(あざな)は救卿である。1824年(文政7)江戸の平田篤胤(ひらたあつたね)に入門し、早くも頭角を現した。1828年、藩政改革の意見書「岩にむす苔(こけ)」を館林藩に提出し、追放された。以後、師の気吹舎(いぶきのや)の塾頭として門弟の指導にあたった。1831年(天保2)藩から赦(ゆる)されたが、藩に復帰できず、上野国太田に厚載(こうさい)館を開き、門弟の教授にあたった。1836年、気吹舎門で教えを受けた越後(えちご)国(新潟県)柏崎(かしわざき)の樋口英哲(ひぐちてるもと)らがその学殖を慕って招聘(しょうへい)し、万は妻子を伴って移住した。たまたま天保(てんぽう)の飢饉(ききん)の真っ最中であり、1837年、大塩平八郎の乱が伝わるとその影響を強く受けて、6月1日、同志6名で桑名(くわな)藩領柏崎陣屋を襲撃し、敗れて自刃した。37歳。著書は『大中道人謾稿(まんこう)』『大学階梯外篇(だいがくかいていがいへん)』『日文伝評論』『古学二千文』など多い。『生田万全集』がある。
[新沢佳大 2016年4月18日]
『伊東多三郎著『国学者の道』(1971・野島出版)』
江戸後期の国学者。本名は国秀(くにほ),通称は小膳,多門,のちに万。大中道人,利鎌屋(とかまのや),道満とも称した。上野館林藩士生田信勝の長子。少年時代には藩校で儒学を学んだが,独学に転じ,平田篤胤の著書を読んで国学に志し,1824年(文政7)に平田の門人となり,一時は篤胤の養子となって代講をつとめたこともある。28年,藩政改革の意見書《岩にむす苔》を提出したが,当局者の怒りにふれて館林藩を追放された。31年(天保2)には許されたが,弟が家督を継いでいたため藩士には復帰できず,上野太田に私塾を開いた。36年平田門人の招きで越後柏崎に移住し,桜園塾を開き国学を教授した。この年と翌年は越後では天災がつづき,農民は飢餓に苦しんだが柏崎代官は救済策を施さず,かえって米価の騰貴を図った。生田は再三農民のために嘆願したが入れられず,37年6月1日,大塩平八郎の乱に刺激され,窮民を救わんとして6人の同志とともに桑名藩の柏崎陣屋を襲撃したが失敗して自殺し,その妻鎬(こう)も2人の幼児を殺したのち自殺した。これは反乱としても失敗であったが,また生田が,環境としての社会に適応することを本筋とし,社会変革への行動を志向することのない平田国学の徒であったとすれば,その行為には疑問が残る。著書に《大中道人謾稿》《大学階梯外篇》《良薬苦口》《古学二千文》などがある。
執筆者:田原 嗣郎
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(ロバート・キャンベル)
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1801~37.6.1
江戸後期の国学者。名は国秀(くにほ),字は救卿,万は通称。父信勝は上野国館林藩士。若くして江戸へ遊学,平田篤胤(あつたね)に国学を学ぶ。帰国後の1828年(文政11)藩政改革を求める意見書「岩にむす苔(こけ)」を藩主に上呈,追放される。流浪の後,31年(天保2)上野国太田に私塾厚載館を開き,著述に専念する。36年同門の樋口英哲に招かれ越後国柏崎(現,新潟県柏崎市)に移住,私塾桜園(おうえん)塾を開き国学を説いた。この年越後は大飢饉にみまわれ,代官・豪商の不正もあり農民は困窮していた。翌37年2月に大塩の乱がおこると,同志とはかり柏崎にあった桑名藩支領の陣屋を襲撃し敗死(生田万の乱)。著書「大中道人謾稿」「日文伝評論」「大学階梯(かいてい)外篇」「良薬苦口(くちににがし)」。
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…貧農の生活は1789年(寛政1)三島(さんとう)郡来迎寺地方百姓一揆檄文に,〈髪はわらで結い,帯は縄を用い,食物はヒエであるので子供は弱々しい,灯火は油がないので夜は暗く,住居はむしろもない,冬はこたつも足袋もない〉と述べている。都市でも細民の増加から1768年(明和5)新潟湊騒動が発生し,1837年(天保8)生田万(よろず)は天保飢饉の窮民を救おうと柏崎陣屋を襲撃し,敗れて自刃した。 豪農豪商の成長にささえられて,地方の文化が発達した。…
…とりわけ目だつのが篤胤学系統の活動であり,明確な政治思想の観を呈する。つとに天保年間,大塩平八郎の一党と称して越後柏崎で挙兵した生田万(いくたよろず)をはじめ,平田一門には政治的直接行動への参加の事例が多い。またその反面,歴史・制度学系統の流れが,伝統的な農村共同体の観念に根ざした社稷(しやしよく)の学を掘り起こしていたことも見落としてはならない。…
※「生田万」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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