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生田万 いくたよろず

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

生田万
いくたよろず

[生]享和1(1801).上野,館林
[没]天保8(1837).6.1. 越後,柏崎
江戸時代後期の国学者。父は上州館林藩士生田信勝。名は国秀,字は救卿,号は東華,大中道人など。幼時より藩校に学び,文政7 (1824) 年江戸に出て平田篤胤の門に入る。帰郷後藩政改革を唱え罪を得る。のち許されて厚載館を興し子弟を教育する。天保7 (36) 年越後柏崎の神官に招かれ同地に塾を開く。翌年,天保の飢饉の惨状を救おうと蜂起したが失敗し,自刃した。著作『大中道人漫稿』『伊米遅能布美』『日本伝評論』『大学階梯外編』『古学二千文』『古易大象経伝』。

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百科事典マイペディアの解説

生田万【いくたよろず】

江戸後期の国学者。上州館林藩士。本名は国秀(くにほ)平田篤胤高弟。1828年藩政改新を建議して追放され,許されたが帰藩せず,上州大田に私塾を開く。1836年越後柏崎(かしわざき)に移り桜園(おうえん)塾を開き国学を講じた。

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朝日日本歴史人物事典の解説

生田万

没年:天保8(1837)
生年:享和1(1801)
江戸後期の国学者。本姓菅原。名は国秀,通称万,号華山,大中道人,道満など。上野国(群馬県)館林藩士生田信勝の長男。少年時は藩校で経学を学んだが「性理学の屑々焉たる」を厭い,専ら詩文に打ち込み,21歳までに『大中道人謾稿』3巻をまとめた。文政7(1824)年江戸へ出て平田篤胤門下で初めて国学に接した。10年帰藩,翌年藩政改革の意見書「岩にむす苔」を上書するが却下され,藩を追われ,以後流浪。国学塾を上野国太田に開く。天保7(1836)年に篤胤同門の士に招かれるまま越後柏崎に移る。天保飢饉にあえぐ柏崎領民を救うべく数度の嘆願を草するも,藩に無視され,8年2月の大坂大塩平八郎事件を受けて6月に同志を募り,柏崎陣屋を襲撃。失敗し,自ら生を断った(生田万の乱)。<著作>『生田万全集』<参考文献>伊東多三郎「生田万の生涯と思想」(『近世国体思想史論』)

(ロバート・キャンベル)

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世界大百科事典 第2版の解説

いくたよろず【生田万】

1801‐37(享和1‐天保8)
江戸後期の国学者。本名は国秀(くにほ),通称は小膳,多門,のちに万。大中道人,利鎌屋(とかまのや),道満とも称した。上野館林藩士生田信勝の長子。少年時代には藩校で儒学を学んだが,独学に転じ,平田篤胤の著書を読んで国学に志し,1824年(文政7)に平田の門人となり,一時は篤胤の養子となって代講をつとめたこともある。28年,藩政改革の意見書《岩にむす苔》を提出したが,当局者の怒りにふれて館林藩を追放された。

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大辞林 第三版の解説

いくたよろず【生田万】

1801~1837) 江戸後期の国学者。上野こうずけの人。平田篤胤あつたねに学ぶ。藩政を批判して館林藩を追放され、越後柏崎に国学の塾を開く。翌年、天保の飢饉ききん(1836年)に際し、救民のために起ち柏崎の陣屋を襲ったが敗死した(生田万の乱)。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

生田万
いくたよろず
(1801―1837)

江戸後期の国学者。上野(こうずけ)国(群馬県)館林(たてばやし)藩士信勝の長男。幼名を瞭または雄、長じて小善、多門、万と称し、諱(いみな)は国秀、字(あざな)は救卿である。1824年(文政7)江戸の平田篤胤(ひらたあつたね)に入門し、早くも頭角を現した。1828年、藩政改革の意見書「岩にむす苔(こけ)」を館林藩に提出し、追放された。以後、師の気吹舎(いぶきのや)の塾頭として門弟の指導にあたった。1831年(天保2)藩から赦(ゆる)されたが、藩に復帰できず、上野国太田に厚載(こうさい)館を開き、門弟の教授にあたった。1836年、気吹舎門で教えを受けた越後(えちご)国(新潟県)柏崎(かしわざき)の樋口英哲(ひぐちてるもと)らがその学殖を慕って招聘(しょうへい)し、万は妻子を伴って移住した。たまたま天保(てんぽう)の飢饉(ききん)の真っ最中であり、1837年、大塩平八郎の乱が伝わるとその影響を強く受けて、6月1日、同志6名で桑名(くわな)藩領柏崎陣屋を襲撃し、敗れて自刃した。37歳。著書は『大中道人謾稿(まんこう)』『大学階梯外篇(だいがくかいていがいへん)』『日文伝評論』『古学二千文』など多い。『生田万全集』がある。[新沢佳大]
『伊東多三郎著『国学者の道』(1971・野島出版)』

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世界大百科事典内の生田万の言及

【越後国】より

…貧農の生活は1789年(寛政1)三島(さんとう)郡来迎寺地方百姓一揆檄文に,〈髪はわらで結い,帯は縄を用い,食物はヒエであるので子供は弱々しい,灯火は油がないので夜は暗く,住居はむしろもない,冬はこたつも足袋もない〉と述べている。都市でも細民の増加から1768年(明和5)新潟湊騒動が発生し,1837年(天保8)生田万(よろず)は天保飢饉の窮民を救おうと柏崎陣屋を襲撃し,敗れて自刃した。 豪農豪商の成長にささえられて,地方の文化が発達した。…

【国学】より

…とりわけ目だつのが篤胤学系統の活動であり,明確な政治思想の観を呈する。つとに天保年間,大塩平八郎の一党と称して越後柏崎で挙兵した生田万(いくたよろず)をはじめ,平田一門には政治的直接行動への参加の事例が多い。またその反面,歴史・制度学系統の流れが,伝統的な農村共同体の観念に根ざした社稷(しやしよく)の学を掘り起こしていたことも見落としてはならない。…

※「生田万」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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