大岩山古墳群(読み)おおいわやまこふんぐん

日本歴史地名大系 「大岩山古墳群」の解説

大岩山古墳群
おおいわやまこふんぐん

[現在地名]野洲町小篠原・富波など

五之里ごのり富波とば周辺の平地から南東大岩山丘陵にかけての地域に形成された大規模な古墳群で、現在一七基が確認される。三世紀にさかのぼる可能性をもつ富波古墳から、古富波山ことばやま古墳・天王山てんのうざん古墳・大岩山第二番山林さんりん古墳・大岩山古墳(円墳)大塚山おおつかやま古墳・大塚山二号墳(周濠をもった円墳)野々宮ののみや古墳(方墳か)亀塚かめづか古墳・五之里古墳(円墳)・五之里二号墳(古墳推定地)・古富波古墳(帆立貝式古墳)・古富波二号墳(円墳)円山まるやま古墳・甲山かぶとやま古墳・宮山みややま一号墳(円墳)を経て、六世紀後半の宮山二号墳まで、三〇〇年間にわたり一地域に途切れることなく、首長墓系譜をひく古墳が築かれるのは県下でも例のないことで、富波古墳以下八基が国史跡の指定を受けている。

富波古墳は富波乙とばおつ集落西側の平地に築かれた前方後方墳で、墳丘長約四二メートル、後方部辺約二二メートル、前方部幅約一八メートル、くびれ部幅約九メートル、外周する溝を含めると全長五二・三五メートルを測る。削平が著しく墳丘高は不明だがあまり高いとは考えられず、主体部も小規模で副葬品もまったくもたないことから、弥生墳墓から古墳に至る過渡期的様相をもった墳墓とする見解が出されている。古富波山古墳は富波古墳の南約一五〇メートルに位置する直径約二六メートルの円墳

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「大岩山古墳群」の解説

おおいわやまこふんぐん【大岩山古墳群】


滋賀県野洲(やす)市辻町にある古墳群。1881年(明治14)に市内の小篠原に位置する大岩山の中腹から14個の銅鐸(どうたく)が発見され、その後、1962年(昭和37)には新幹線の土取り現場から新たに3個ずつ3組入れ子になって一括出土し、少し離れた場所からさらに1個が出土して計10個になった。こうして大岩山中腹には3地点に計24個の銅鐸が埋納されていたことになり、全国有数の銅鐸出土地となった。これらの銅鐸出土を記念して、野洲市は出土地の近くに市立歴史民俗資料館を建設し、大岩山から出土した銅鐸だけでなく近畿地方や東海地方から出土した銅鐸も含めて常設展示しており、一般には銅鐸博物館の名で知られている。銅鐸の大量埋納は、弥生時代後期から古墳時代にかけて政治的な動きのなかでムラ同士の統合が進み、それぞれのムラでそれまで保有していた銅鐸が統合の際に集められて埋められたものと解釈されている。したがって、大岩山で大量の銅鐸が集積されていたことは、この地域にこれまでとは違った大きな政治集団が誕生したことを裏づけるものである。つまり、この付近には弥生時代の村落を統合して一大地方豪族に成長した一族がおり、三上山の山並み北方に続く大岩山の山麓から、旧野洲町の五之里(このり)や冨波(とば)周辺の平地にかけて大規模な古墳を作り続けたものが大岩山古墳群である。確認されている古墳は17基に達し、そのうち独特の石棺が出土した円山(まるやま)古墳と甲山(かぶとやま)古墳が1941年(昭和16)に国の史跡に指定され、1985年(昭和60)に冨波・古冨波山・大塚山・亀塚・天王山・宮山2号の6基の古墳が追加指定され、8基をあわせて名称変更された。もっとも古いとされる冨波古墳は築造時期が3世紀までさかのぼる可能性があり、一番新しい宮山2号墳は6世紀後半の築造とされる。桜生(さくらばさま)史跡公園には、大岩山古墳群の天王山古墳、円山古墳、甲山古墳があり、いずれも近江を代表する後期古墳だが古墳の一部が崩れたため発掘調査と整備を行い、公開されている。1995年(平成7)には追加指定を受けている。JR東海道本線野洲駅から近江鉄道バス「銅鐸博物館前」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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