平安中期の漢文学者。生年は952年説もある。大江維時(これとき)の孫。式部大輔に任じ,尾張守となったので,江吏部(ごうりほう),尾州刺史とよばれる。前半生読書30年に及んで官位は遅々として進まず不遇をなげいたが,46歳にして東宮学士,次いで式部大輔,昇殿して帝師となり遺憾なく江家の学統たる面目をあらわす。彼は当代の鴻儒をうたわれたが,身は貧しく風采はなはだあがらなかったが,ついに当代一流の歌人赤染衛門を妻とし,彼女の《栄華物語》述作にも史伝の学者として影響を与えたと思われる。詩は《本朝麗藻》《和漢朗詠集》に入り,散文は《本朝文粋》に多く入集。彼の別集《江吏部集》3巻が現存し,詩140首,詩序38編を収める。〈述懐古調百韻〉は注意すべく,また侍読として《文選》《白氏文集》を進講し,江家の伝統だと誇る。敦煌出土の《老子化胡経》の影響を強くうけ,三教一致,儒仏道習合の傾向を示し,みずから老子化胡以来の変身で帝師となったのだという呪術家的神秘主義の思想を吐露し,このことは匡房にうけつがれる。歌人として《大江匡衡朝臣集》が現存。
執筆者:川口 久雄
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平安中期の漢詩人、歌人。24歳で文章生(もんじょうのしょう)となり、38歳で従(じゅ)五位上、文章博士(はかせ)。997年(長徳3)東宮学士、翌年従四位下、式部大輔(だいぶ)に任ぜられた。当時すでに詩人、学者としての世評が高く、新年号勘進の役を仰せられたり、『孔子世家』についての江家(ごうけ)の説を奉ったりした。正四位下に至り、晩年には三たび尾張守(おわりのかみ)に叙せられた。詩集に『江吏部集(ごうりほうしゅう)』3巻、歌集に『大江匡衡朝臣(あそん)集』1巻がある。そのほか『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』や『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』以下の勅撰(ちょくせん)集に詩序や和歌が残っているが、自らの不遇をかこつものが多い。語彙(ごい)もかならずしも豊富とはいえないが、作品の構成はきわめて巧みである。
[金原 理]
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