日本歴史地名大系 「大江御厨」の解説
大江御厨
おおえのみくりや
- 大阪府:東大阪市
- 大江御厨
中世において市域の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
中世において市域の
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中世の河内国中部一帯にあった皇室領荘園。朝廷の御厨子所(みずしどころ)の所管で,当時河内平野を乱流していた古大和川と,その流域に展開する〈河内の江〉および渡辺など沿岸の津をひろく領有し,天皇の食膳に供える供御(くご)の魚類を貢進した。延喜荘園整理令の直後の905年(延喜5)に,蔵人所と河内国司の発した文書によって成立。国中の池・河・津のほか,本田230町に及ぶ供御免田があり,その年貢で魚類を調達して毎日の供御にあてた。漁業を営む御厨住人は舟運にも従事し,1048年(永承3)の関白頼通高野山参詣のときには,大江御厨夫が淀川を下る乗船の水夫の役をつとめた。御厨領は川筋にそってひろがり,山本(八尾市),水走・河俣(東大阪市)あたりから,摂津の河口にまで及んでいた。
御厨領の要所には執当(しつとう)と呼ばれる現地荘官が置かれ,12世紀の初め,在地領主藤原氏(水走(みずはや)氏)が,大江御厨山本・河俣執当職に任じられたが,水走氏の祖と仰がれる藤原季忠は,1144年(天養1)ごろ,御厨内の河内郡有福名水走の地を開発して,これを本領とした。その子康忠は源平内乱のとき,源義経の軍勢の兵士兵粮米役を課せられ,所領支配を脅かされたので,義経にその免除を申請して鎌倉御家人となった。水走氏の4代目藤原康高の1252年(建長4)の譲状によると,水走氏所領は河内郡五条の屋敷一所をはじめ,山本・河俣両執当職その他池・河,諸郷長者職,諸庄下司公文職,国衙図師職,枚岡神社社務職,林四所,水走私領,諸寺俗別当職などに及んでおり,鎌倉期大江御厨の支配は,以上のように広範な勢力をもつ在地領主に支えられていた。室町時代の大江御厨は,内蔵寮長官を世襲した山科家が知行したが,そのころ大江御厨河俣は,もとの御厨から分立して河俣御厨と呼ばれ,やはり水走氏が執当職を伝領している。山科家領大江御厨は,応仁・文明の乱のころには不知行の地となっていた。
執筆者:戸田 芳実
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河内(かわち)国内、現在の大阪府東大阪市を中心とした地にあった皇室領。この地は大和(やまと)川がつくる湖沼に、大阪湾が入り込み、大きな入り江をなしていた。古くから漁猟が盛んで、朝廷へ贄(にえ)として魚鳥を貢納する供御(くご)江に指定されていた。905年(延喜5)貢納を目的にした漁猟が許される領域は御厨として改めて確認され、御厨子所(みずしどころ)の管轄下に置かれた。漁猟は隣国摂津国にまで及び、各地で利権争いが生じている。このため1119年(元永2)領域を明確にし、漁猟が許される供御人の名簿をつくり、彼らに与えられている田地・在家(ざいけ)を調べるよう命令が出されている。1161年(応保1)には供御人に230町の田地が与えられていたことがわかる。しだいに米で魚鳥を買い集めて貢納するようになっていったらしい。貢納は減少しながら室町時代まで続いた。平安時代以来、現地の管理人を代々務めた水走(みずはや)氏が武士団に成長している。
[富沢清人]
『『布施市史 第1巻』(1962・布施市)』
…《水走系図》では河内国の豪族平岡連の後胤とし藤原姓を名のっている。12世紀初め祖始季忠が皇室領大江御厨山本・河俣執当職に補され,12世紀中ごろ河内郡水走の地を開発し水走氏を称した。御厨の現地管理者として供御を貢進したと思われるが,源平争乱期に源義経に従い御家人となり,勢力も若江郡,茨田(まんだ)郡に広げた。…
…古くは大渡,窪津などとも称された。平安時代より皇室領大江御厨(みくりや)の中心として供御人が居住し魚類などを貢進した。また交通の要所でもあり,京より四天王寺・住吉神社さらに熊野へ参るには,淀川を舟で下り渡辺で上陸し,熊野街道を南下する場合が多かった。…
※「大江御厨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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