大菅村(読み)おおすげむら

日本歴史地名大系 「大菅村」の解説

大菅村
おおすげむら

[現在地名]日南町阿毘縁あびれ

猿隠さるがくれ(八一六・九メートル)の南麓、東流する砥波となみ川上流部に位置し、東は礪波となみ村、西は大菅峠を越えて出雲国仁多にた郡へ至る。北は猿隠山西麓の阿布礼あびれ(阿毘縁峠)を越えて同国能義のぎ西比田にしひだ(現島根県広瀬町)に至るが、「日野郡史」は「出雲国風土記」にみえる阿志あしびえ山のの所在地をこのルートに比定する。拝領高は五三石余、本免は五ツ六分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九四石余、竈数二六。「伯耆志」では林五町三反余、家数二六・人数一五〇、鑪山として日向ひな山・陰地おんじ山があり、産物砂鉄。寛延二年(一七四九)の巡見使答申書では日野郡内一六鑪場の一つに数えられており(藩史)、延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)では鑪一に一〇〇匁、天保九年(一八三八)の巡見一件諸事控(西古家文書)では鑪一に一二〇匁、鍛冶屋一に六〇匁の運上銀が課されていた。


大菅村
おおすげむら

[現在地名]下総町大菅

滑川なめがわ村の東に位置する。寛文四年(一六六四)年貢割付状(大菅区有文書)に「小菅村」とみえ、高一八七石余、免は六ツ六分で、佐倉藩領であった。天和元年(一六八一)頃に大菅村と改称したとされ、貞享三年(一六八六)名寄帳(同文書)に大菅村とみえる。同帳によると、田一一町五反余(分米一一五石余)・畑屋敷一二町一反余(分米六七石余)。享保八年(一七二三)から山城淀藩領となり幕末に至る。同年の淀藩領郷村帳では夫役永五三〇文・栗代永一七文・山銭鐚一貫八八五文・草銭鐚一貫六五文。同一九年の村明細帳(大菅区有文書)によれば、反別二六町二反余、家数三〇・人数一五一、馬一七、年貢は利根川の滑川河岸から津出しした。


大菅村
おおすげむら

[現在地名]富岡町大菅

東流するさかい川南岸の東西に細長い低丘陵上にあり、南は上手岡かみておか村、東は小良おらはま村。もとは小良ヶ浜村の枝村で、戸数一〇に満たない小村であったという。元禄一四年(一七〇一)の磐城四郡十二組村々名主覚(里見家文書)に村名がみえる。


大菅村
おおすげむら

[現在地名]里美村大菅

里川中流の西岸に位置し、北は折橋おりはし村。「新編常陸国誌」によると明暦三年(一六五七)折橋村より分村したというが、すでに寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「大菅村」とあり、村の大半は松平壱岐守の知行地であった。明和九年(一七七二)大菅より細田ほそだ(現上深荻)まで長さ二四〇間・幅五尺の新用水路が貫通したが、その開設理由と水路敷の補償について「国用秘録」に「大菅河原野より一里斗下郷水損あるニ付細田村の為メ大菅河原野永引難立候ニ付細田ニ永引ヲ立」とある。


大菅村
おおすがむら

[現在地名]名立町大菅

名立川右岸の山麓台地と氾濫原に立地し、北の下流名立大町なだちおおまち村のうち岩屋堂いわやどう、南は車路くるまじ村。正保国絵図に高五二石余とある。天和三年郷帳に七六石三斗余と記される。菅原昌之進本秋という者が、妻を伴って諸国回遊の途上、この地の清水のほとりに住みついたのが始まりという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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