大道村(読み)おおどうむら

日本歴史地名大系 「大道村」の解説

大道村
おおどうむら

[現在地名]龍ヶ岳町大道

高戸たかど村の西方に続く海沿いの村。横穴式石室の古墳時代後期大道鬼おおどうおにかま古墳があり、天神山てんじんやま古墳からは勾玉類が出土した。東浦ひがしうらに宝篋印塔があり、「嘉吉二年九月十六日 心田了公座元禅師」とある。

戦国時代栖本氏の支配下にあったと思われるが、一時期上津浦氏の領有に帰したこともある。「八代日記」永禄四年(一五六一)閏三月一一日条に「上津浦分領池浦、佐敷ヨリ夜討候而、一人打二人生取候」とみえ、栖本氏を支援する相良氏の部将が佐敷さしき(現葦北郡芦北町)より当村の枝郷いけうらに兵船を繰出した。天草・島原の乱後、砥岐組に属し、庄屋は砥岐組大庄屋藤田家の兼帯。正保郷帳に村名がみえ、高一二〇石一斗余とある。


大道村
だいどうむら

[現在地名]龍野市龍野町大道

四箇よつか村の西に位置し、揖西いつさい郡に属する。北は中川原なかかわら分、西は揖保いぼ川を挟んで半田はんだ(現揖保川町)当地を中世山陽道が通っていたとみられる。山陽道は嘉暦四年(一三二九)四月日の鵤庄絵図(法隆寺蔵)に筑紫大道、永徳二年(一三八二)八月六日の弘山庄実検絵図写(円尾文書)には大道と記され、当村は筑紫大道の西側延長線上に位置し村名はその名残と考えられる。


大道村
おおどうむら

[現在地名]十和村大道

笹平ささひら山に源を発した仁井田又にいだまた川が、番所谷ばんしよだにで西北方大畑おおばたけから流れ出た谷川を合せて久保川くぼかわ川となって南流するが、この久保川川の中流から上にかけての地域を占め、窪川くぼかわ村の北方にあたる。上山かみやま下分しもぶんの一村。「土佐州郡志」は「東限大森之駄場、西限高平畝、南限窪川大森、北限予州地蔵之森、東西四十町南北百町、戸凡三十余、其土黒」と記す。


大道村
おおどうむら

[現在地名]津島町山財さんざい 大道

岩松いわまつ川の水源地域にある山村。北は御代川みよのかわ村、南は御内みうち村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「大道村 深山有、谷深キ所、五三年ニ一度冷枯逢申候」と村名がみえ、深山に囲まれて冷害を受けやすい村であった。宇和島藩領。

太閤検地の石高は六二石五斗で、耕地面積の比率は田八七パーセント、畑一三パーセント。寛文検地では石高が三四パーセント減少し、水田七六パーセント、畑二四パーセントとなっている。「墅截」によると村柄は「下々」、田が「下」、畑が「下々」とされ、水掛りは「悪」となっている。


大道村
おおみちむら

[現在地名]越谷市大道・千間台東町せんげんだいひがしちよう千間台西せんげんだいにし

三之宮さんのみや村の南東に位置。南は元荒川に限られ、集落は同川の自然堤防上に広がる。当地からは貞治四年(一三六五)・同六年在銘の板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、高は田方一九二石余・畑方六六石余。三之宮村と同じく寛永二年(一六二五)岩槻藩の城付村となり幕末に至る。延宝八年(一六八〇)の家数三二(うち本百姓三一)、人数二六三(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)


大道村
だいどうむら

[現在地名]能生町大道寺だいどうじ

能生川右岸の鷲尾わしお村・柱道はしらみち村から少し山手に入ったところに立地する。慶長三年(一五九八)の「頸城郡西浜能生組之内 たいわう村 佐少村 大道村」の検地帳(清水敏雄氏蔵)があり、三村合せて田方二町二反大一一歩・分米三〇石九斗余。畑方二町一反半八歩・分米一〇石四斗余で、このほかに小物成として青苧六貫六〇〇目があり、「但此内半分ハ河村時ハ用捨之由御百姓申候」とある。


大道村
おおどうむら

[現在地名]八尾町大道

足谷あしたに村の西方、室牧むろまき谷西部の山腹にある。天正六年(一五七八)八月六日の神保長住宛行状(婦負郡志所収御領分所々古城跡聞書)に「わうたう村」とみえるのが当地と考えられ、小谷六右衛門に与えられている。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは足谷村と合せて記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

防府市歴史用語集 「大道村」の解説

大道村

 1889年(明治22年)、台道村切畑村で成立しました。当時の人口は4245人でした。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

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