大石良雄を首領として1702年(元禄15)12月14日に吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人。大高は禄高20石五人扶持で,父忠晴の代に新たに浅野家に召し抱えられた。浅野家が断絶した後はおもに京都にいたが,翌年9月吉良を討つため江戸に下るにあたり決別の意をこめて母にあてた手紙には,浅野の家臣たちが吉良を討つ目的と意義を余すところなく述べており,赤穂事件の重要な史料である。
執筆者:田原 嗣郎 大高源吾は死後,浄瑠璃・歌舞伎・講談等に取り上げられた。浄瑠璃《仮名手本忠臣蔵》(1748年8月初演)には大鷲源吾(異版では〈大わしぶん五〉とも)の仮名で登場し,討入りのシーンで〈……大鷲源吾かけやと大槌引さげ引さげ〉と描写される。江戸歌舞伎で1749年(寛延2)6月中村座上演のおり,2世市川団十郎は水間沾徳(せんとく)遺品の大高源吾筆〈山を劈(さ)く(“抜く”とも)力も折れて松の雪〉の句を記した掛物を所蔵する縁で大館熊之助の役名で源吾役をつとめた。このとき以来菱皮鬘(ひしかわかつら)に一本隈という扮装で荒事の演出が行われ,代々市川家の家の芸とされ,源吾は勇猛の士としての性格に強調点がおかれたが,この演出はいつか絶えた。宝井其角が両国橋で煤払(すすはらい)竹売りに身をやつし吉良邸の様子を探る源吾に出会い,〈年の瀬や水の流れと人の身は〉の発句に対し,源吾が〈あした待たるるその宝舟〉と付けたという巷説があり,1856年(安政3)5月森田座初演《新台(しんぶたい)いろは書初》(3世瀬川如皐作)で舞台化され,さらに90年5月歌舞伎座初演《実録忠臣蔵》(福地桜痴作,3世河竹新七補)に引きつがれ,その一部が独立して1907年10月初演《土屋主税》また《松浦の太鼓》となった。源吾の俳人子葉(しよう)としての側面は講談《義士銘々伝》中にも強調され,真山青果作《元禄忠臣蔵》(〈吉良屋敷裏門〉〈泉岳寺〉の場)でも俳人であり勇者である両面が描かれている。
執筆者:小池 章太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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