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天平彫刻 てんぴょうちょうこく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

天平彫刻
てんぴょうちょうこく

天平時代(奈良時代)の彫刻の様式的特徴は,前代の白鳳時代後半期に続き唐様式の影響が顕著になり,前代に比較して面相や体躯の表現がいっそう理知的な要素を示すことである。童顔から成熟した大人の顔つきになり,体躯も均整がとれ,動きを自由に表現。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

天平彫刻
てんぴょうちょうこく

710年(和銅3)の平城遷都から794年(延暦13)の平安遷都までの奈良時代後期八十余年間を美術史では天平時代とよび、その時代につくられた彫刻を天平彫刻という。
 奈良時代前期(白鳳(はくほう)時代)の7世紀後半に始まった唐代中国との直接交流により、盛唐の爛熟(らんじゅく)した文化が受け入れられ、奈良の都を中心にいわゆる天平文化が形成された。当時の唐はペルシア、インドからシベリア地方の一部にまで及ぶ一大勢力圏をもち、その文化は従来の伝統に西方文化を融合した多彩なものであったが、一方、大化改新後のわが国は国力増強のため大陸文化の導入にも積極的で、壮大な東大寺大仏の造立をはじめ、東西美術の交流の跡を示す正倉院の工芸品など、盛唐文化の影響を色濃く反映した遺例が多い。
 とくに天平時代は、皇室・貴族の篤信と保護のもとに国家的事業として造寺造仏が相次いで行われ、仏教美術が目覚ましい発展を遂げたが、なかでも盛行して遺品も多いのは彫刻である。白鳳時代にみられた斉(せい)・隋(ずい)・初唐の彫刻様式はしだいに影を潜めて唐風一色に塗りつぶされ、像容は豊満で堂々とし、筋肉描写や動態表現には唐の写実的傾向がよく表れている。またそうした表現に適したものとして、加工しやすい乾漆(かんしつ)や塑土(そど)が彫刻材料の主流となった。塑土を用いる塑像は、いわば土を固めて乾燥させた泥人形のようなものであるが、古代インドに起源をもち、西域(せいいき)や中国で大いに流行し、敦煌(とんこう)や麦積山(ばくせきざん)の石窟(せっくつ)寺院にも多くの遺物がみられる。天平彫刻の開幕を告げる名品として名高い法隆寺五重塔の塑像群は711年につくられているが、塔の最下層の心柱の四方に塑土で山岳の洞窟(どうくつ)のような舞台をつくり、そこに涅槃(ねはん)、分舎利(ぶんしゃり)、維摩(ゆいま)と文殊(もんじゅ)の問答、弥勒(みろく)仏土の四場面を表す。塑像の代表的遺品としては、同じ年につくられた中門の仁王(におう)像のほか、天平後半期の大事業であった東大寺造営に伴う三月堂の執金剛神像や日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、戒壇院の四天王像などが格調高い造形美を示しているが、塑像は重さと堅牢さの点で難があって、安定性のある形に限定されること、わが国のような高湿の風土には不向きな素材であることなどのため、この時代以外にはほとんど制作されていない。
 乾漆の技法はすでに飛鳥(あすか)時代に部分的な肉づけの補いとして用いられているが、造像の主材料になるのは白鳳後半期で、天平時代に盛行した。粘土で原形をつくって麻布をはり、漆を塗った上にまた麻布をはって乾燥、という工程を7、8回繰り返し、最後に原形の粘土を取り除くというこの技法(脱活乾漆造)は、造形に柔軟性があり、作品も軽く、湿度にも強いため歓迎されたが、上質の漆を用いるために費用がかさみ、時間もかかるのが難点で、これもこの時代以降はほとんど用いられていない。乾漆像初期の代表作としては、734年(天平6)に光明(こうみょう)皇后の発願による興福寺西金堂の釈迦(しゃか)本尊の眷属(けんぞく)としてつくられた十大弟子(ていし)像、八部衆像がある。たび重なる火災にもこれらの像は持ち出され、十大弟子像は六体、八部衆像は五部浄とよばれる一体が下半身を失っているほかは七体ともほぼ完全な形で現存しており、なかでも三面六臂(ろっぴ)の阿修羅(あしゅら)像は、その異形と少女のような若々しい面ざしによって名高い。いずれも姿態に多少柔軟さの欠ける恨みはあるが、格調ある写実に徹した天平彫刻の真骨頂をうかがわせる作品である。ほかに東大寺三月堂の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像、梵天(ぼんてん)像、帝釈天(たいしゃくてん)像、金剛力士像、四天王像、二力士像は、天平彫刻を代表する乾漆造の巨像群である。
 天平彫刻は東大寺大仏造営とそれに付随する造像で頂点に達した。大仏は、当時中国で続々とつくられた巨大な仏像の刺激を受け、仏教国家の象徴として発願されたもので、746年に原型を完成、翌年から3年がかりで鋳造を成し遂げた。鋳造には「けずり中型(なかご)」「鋳がらくり」の技法を用いたと考えられている。現存の大仏は二度の火災によって上半身が改められているが、当初の部分が残っている蓮弁(れんべん)には釈迦浄土を中心とする蓮華(れんげ)蔵世界図が線刻されており、そこにみられる仏たちの円満な顔だちから造立当初の大仏の姿が想像される。東大寺の前身にあたる金光明寺(こんこうみょうじ)の造仏所が活動し始めたとされるのが742年ごろであり、東大寺の造営事務所であった造東大寺司の廃止が789年(延暦8)であるから、東大寺造営は天平時代そのものを象徴する一大事業であり、その司の廃止は時代の終末でもあった。
 大仏の造営が一段落を迎えた754年(天平勝宝6)ごろから、天平時代は末期にさしかかり、作品の写実性は行きすぎて誇張が強まり、生気の乏しい陰うつな傾向をみせ始める。多すぎる造寺造仏によって国家財政が困窮し、それまでの乾漆(脱活乾漆)にかわって、低品質の漆でも使える木心乾漆像が増えたが、そのなかにあって唐僧鑑真(がんじん)が759年(天平宝字3)に創建した唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂の本尊盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像は脱活乾漆造の傑作であり、奈良・聖林寺(しょうりんじ)の木心乾漆造の十一面観音立像も、東大寺造仏所系の作家の手になる天平彫刻最末期の作として光芒(こうぼう)を放っている。それ以後は、鑑真とともに来朝した中国工人の作と思われる唐招提寺講堂の木彫や、木心乾漆像の多くにみられるような、台座蓮肉まで一材から彫り出したたくましい体躯(たいく)の、くせの強い彫像が人々に新鮮な驚きを与え、それが直接間接に次の平安初期彫刻に大きな影響を与えた。[佐藤昭夫]
『浅野清・毛利久著『原色日本の美術3 奈良の寺院と天平彫刻』(1966・小学館) ▽毛利久著『日本の美術5 天平彫刻』(1970・小学館) ▽上原昭一・鈴木嘉吉編『日本美術全集4 天平の美術I 南都七大寺』(1977・学習研究社)』

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