(読み)ホク

デジタル大辞泉 「北」の意味・読み・例文・類語

ほく【北】[漢字項目]

[音]ホク(呉)(漢) [訓]きた
学習漢字]2年
〈ホク〉
きた。「北緯北極北国北上北西北端北部北風北方北洋極北硯北けんぼく・最北・朔北さくぼく南北
背を向けて逃げる。「敗北
〈きた〉「北風北国北半球
[難読]台北タイペイ北京ペキン北叟笑ほくそえ

きた【北】[地区の俗称]

江戸城の北の吉原遊郭、大坂の曽根崎新地堂島の俗称。→西
[補説]現在では多く、堂島に近い梅田の繁華街をさし、「キタ」と書く。

きた【北】

太陽の出る方に向かって左の方角。⇔
北風。 冬》「―寒しだまって歩くばかりなり/虚子
[補説]地名・書名別項。
[類語]西

きた【北】[大阪市の区]

大阪市北部の区名。中之島公園天満天神造幣局などがある。平成元年(1989)大淀区を合併。また、特に大阪駅・大阪梅田駅周辺の繁華街の称。

きた【北】[京都市の区]

京都市北部の区名。昭和30年(1955)上京区から分離。大徳寺鹿苑寺上賀茂神社などがある。

きた【北】[浜松市の旧区名]

浜松市の旧区名。令和6年(2024)大半が浜北区と統合され浜名区に、南東部が中央区となった。

きた【北】[東京都の区]

東京都北部の区名。荒川右岸にある。昭和22年(1947)滝野川・王子の両区が合併して成立。明治時代から製紙・印刷業が発達。大規模住宅団地や飛鳥山公園がある。人口33.6万(2010)。

きた【北】[岡山市の区]

岡山市の区名。造山古墳吉備津神社岡山城などがある。

きた【北】[書名]

《原題、〈フランスNordセリーヌの小説。1960年刊。「城から城」「リゴドン」と併せ、「亡命三部作」「ドイツ三部作」などとよばれる作品群の第2作目。

きた【北】[神戸市の区]

神戸市北部の区名。宅地化が進行。有馬温泉がある。昭和48年(1973)兵庫区から分離。

きた【北】[新潟市の区]

新潟市の区名。阿賀野川の東岸を占める。旧豊栄市域を含む。

きた【北】[札幌市の区]

札幌市北部の区名。北海道大学がある。

きた【北】[さいたま市の区]

さいたま市北部の区名。旧大宮市の北部にあたる。盆栽村がある。

きた【北】[熊本市の区]

熊本市の区名。植木地区はスイカの生産がさかん。

きた【北】[名古屋市の区]

名古屋市北部の区名。住宅地・工業地。

きた【北】[堺市の区]

堺市の区名。住宅地化が進む。

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精選版 日本国語大辞典 「北」の意味・読み・例文・類語

きた【北】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 方角の名。日の出る方に向かって左の方向。十二支では子(ね)の方角に当たる。
      1. [初出の実例]「山の陽(みなみ)を影面(かけとも)と曰ふ。山の陰(キタ)を背面(そとも)と曰ふ」(出典:日本書紀(720)成務五年九月(熱田本訓))
      2. 「三条の大路よりきた」(出典:宇津保物語(970‐999頃)俊蔭)
    2. 北風。《 季語・冬 》
      1. [初出の実例]「朝きたの出で来ぬさきに綱手はやひけ」(出典:土左日記(935頃)承平五年二月五日)
      2. [その他の文献]〔日葡辞書(1603‐04)〕
    3. きた(北)の方(かた)」の略。
      1. [初出の実例]「北の慶寿院殿をはじめ奉りて上下御よろこび限なし」(出典:室町殿日記(1602頃)一)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 江戸城の北にある遊里、新吉原を、南の品川に対していう。北郭(ほっかく)。北国(ほっこく)
      1. [初出の実例]「北の南のたつみのと、えしれぬかたへいざなひける」(出典:黄表紙・高漫斉行脚日記(1776)上)
    2. [ 二 ] 大阪の堂島川、土佐堀川を分ける中之島から北側の地域。特に堂島の付近をいい、また、梅田新道などの歓楽街をさす。
    3. [ 三 ] 大阪市の曾根崎新地の俗称。北の新地。
    4. [ 四 ] 大阪市の北浜の略称。
    5. [ 五 ] 東京都二三区の一つ。昭和二二年(一九四七)、滝野川区・王子区が合併して成立。東京都の北東部、荒川の右岸にある。低地には製紙、化学、印刷などの工業が、台地には住宅地が発達する。
    6. [ 六 ] 京都市の行政区の一つ。昭和三〇年(一九五五)上京区から分離して新設。北山丸太の産地で林業が盛ん。南部の市街地は高級住宅地。金閣寺、大徳寺などがある。
    7. [ 七 ] 大阪市の行政区の一つ。明治二二年(一八八九)大阪市制施行と同時に成立。大阪市の都心部を形成する経済、文化、交通の中心。
    8. [ 八 ] 名古屋市の行政区の一つ。昭和一九年(一九四四)東区と西区から分離して新設。染色業、窯業、繊維工業を主とする工業地帯であったが、現在は住宅団地の造成も進む。
    9. [ 九 ] 札幌市の行政区の一つ。昭和四七年(一九七二)市が指定都市となったときに発足。明治八年(一八七五)、屯田兵の入植によって開かれた。北海道大学、茨戸湖などがある。
    10. [ 十 ] 神戸市の行政区の一つ。昭和四八年(一九七三)兵庫区から分区成立。六甲山地北麓一帯を占める。有馬温泉がある。
    11. [ 十一 ] さいたま市の行政区の一つ。平成一五年(二〇〇三)成立。旧大宮市の北部にあたり、盆栽村がある。
    12. [ 十二 ] 青森県の東部におかれていた郡。明治一一年(一八七八)上北・下北の両郡に分割されて消滅。
    13. [ 十三 ] 北アルプスの略称。

きた【北】

  1. 姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「北」の意味・わかりやすい解説

北 (きた)

観測点から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに北,北北東,北東,東北東,東……など16方位で呼ぶのが一般的である。北は,観測者が太陽の昇る方向(東)に向いたとき左手に当たる方向で,英語のnorthもインド・ヨーロッパ語系のner(on the leftの意)に由来している。古来,中国や日本では十二支(干支(かんし))で方位を呼び,北は子に当たる。

現代人の場合はどうか知らないが,伝統的な日本人の感性にあっては,〈きた〉(北)といえば寒冷,静寂,冬,夜,暗黒,死者などのイメージが付きまとうほか,女性,胎内,水,知恵などとの連想のもとに観念されることが多かった。北風はつめたいものと決まっているし,北向きの部屋はもの静かで暗く,瞑想するにはもってこいの住居空間である。史実をみても,日光東照宮は江戸から真北に当たる霊廟であり,〈北の政所(まんどころ)〉〈北の方(かた)〉〈北の対(たい)〉〈北の台(だい)〉などの尊称は貴人(大臣,大将,公卿など)の妻室の居所から出た呼び名であった。また,〈北面(きたおもて)〉とは,女性のいる勝手口(奥向き,ないしょの意もある)をさす。たとえば,《枕草子》に,宮仕えしている女房の局(つぼね)に通ってくる恋人の男がそこで食事するのははなはだみっともないと叙した文章の末尾に〈里などにて,北面よりいだしては,いかがはせん。それだになほぞある〉(女房が実家にさがっているときに,ないしょで食事を出してやったような場合には,これはしかたない。そんな場合でも,やはり,みっともないことに変りはないが)と記しているのでわかるように,女性のみが出入りする場所を言った。江戸時代にも〈北御部屋(きたのおへや)〉といって将軍家大奥の居間があり,御台所(みだいどころ)や中﨟(ちゆうろう)が懐妊すると,5ヵ月目からこの部屋へ移った。一方,こんにちでも普通におこなわれる習俗である〈北枕〉は,仏教で釈迦涅槃像(しやかねはんぞう)にまねて死人の枕を北へ向けて寝かす臨終時の行儀作法である。このようにみてくると,日本人の〈きた〉に対する感じ方には確かに一定のパターンがあったと言わなければならない。

 しかし,その根拠や理由を突き止めるとなると,かならずしも容易ではない。だいたいの見通しとしては,日本列島住民の生活習俗の根底部分に古くから陰陽五行思想が行き渡っていて,これが宮廷行事から民間信仰に至るまでの認識論体系を織り上げていたことと深い関係があるらしい,とだけ言っておこう。

 まず,手がかりとして,〈きた〉の語源から調べていこう。貝原益軒《日本釈名(にほんしやくみよう)》(1699)は〈北 直指抄云,北方は其色黒し。上古には黒き色をきたなしと云。なしの文字は無の字の義にはあらず,語の助也。○直指抄の説まことに明か也。或又北は陽のはじめて生ずる方なれば,万物いきいきたるの意歟(か)。冬至子の半,一陽来復すれば也〉と説明づける。益軒の語源説明は,東を〈日頭(ヒガシラ)なり。らの字を略す。日のはじめて出る所,かしら也〉,西を〈いにし也。日は西へいぬる日のいにしと云意。いを略す〉,南を〈万物皆みゆる意。日の南にある時,あきらかにしてみな見ゆる也〉というふうに,方位を示す日本語がすべて太陽の所在場所に由来すると説いているのだが,いくぶん駄洒落(だじやれ)ないし語呂遊びのきみはあるものの,案外に日本古代人の世界認識に触れえていなくもないと思われる部分をも包含している。というのは,時間季節の名称とか色名とかにも太陽の運行をもとにした呼称法が用いられたと考えてよいからである。しかしながら,益軒の〈北は黒,黒はきたない〉説や〈北は陽のはじめ,万物いきいきたるの意〉説をこじつけと感ずる同時代人が現れたのは,これまた当然で,大塚嘉樹《蒼梧随筆》(1800)は〈白石君の東雅の解に見へしを釈日本紀,和名抄の如きに牽合して聊愚見を以て己れが好める方に荷担せしなり〉と注記しつつ,つぎのような語源説を提起してみせる。〈北,きたは分にてわかつの義なり。上古のとき,此葦原の中津国の地方は,北の方は越の山重りて東西をへだち分ちたり。是も都より東へ下り行くときに,南は東西に打つゞきて見へるが,北の方は上にいへるごとく,越の山重りへだゝりて東西を分つなるによて,分の字の義にてきたといへるなり。即ち南へ対したるの訓なり。分の字の訓をきたと云るは,日本紀の訓にて,大分君をおほきたのきと訓じ,又おほきたのきみとも訓ぜしなり。又和名抄に筑前国新分郡をいきた郡と読せたるも,是分をきたと訓ずるの拠る所なり。また段の字をきたと訓て,神代に素盞烏尊の八岐の大蛇を截断て三段となし玉へるなり〉〈全く上世に朝夕の日の出と夕べの日の没とを分ちし方なるを以てきたと云なり〉(巻之二,東西南北之和訓)と。なるほど,大塚嘉樹説のほうが貝原益軒説よりも合理的思考を数歩すすめたことは確かであるが,それにしても,〈きた〉と太陽の所在する方向とを切り離して考えない点ではまったく同じであり,どうやら古代日本人の方位呼称と太陽の射し入る方角ないし明暗度とは密接な関係があると考えるのが妥当のようにおもわれる。

 ところが,一歩しりぞいて,東を日が差しそむる空を仰(=青)ぐ色としたり,南を物皆が見ゆる明(=赤)い方角としたり,西を日禰之(=日没)の著(しる)(=白)き方向としたり,北を日の出と日の入りとを分かつ暗(=黒)き穢(きたな)き方位としたりした,古代日本人のごたごたとして矛盾の多い原始心理を,中国伝来の陰陽五行思想の宇宙論システムの網目をとおして整頓し直してみると,いっさいがまことにすっきりしてくる。すなわち,記紀神話であれ祝詞であれ,詩歌であれ造形芸術であれ,はたまた宮廷呪術であれ民間信仰であれ,日本古代人が抱懐した方位感覚は,陰陽五行の中国哲学に準拠して学習=摂取に努めた結果として獲得したものであった。ずさんだったり矛盾だらけであったりするのは,当時の知識人の学力不足の結果であるか,民衆の一知半解ゆえの早とちりの結果である。北についていえば,陰陽五行説は,五番目の気を水とし,五色では黒,五時では冬,五星では辰星,五常では智,十干では壬と癸,十二支では亥・子・丑,月では十・十一・十二月をあらわしている。この基本システムを透視しさえすれば,古代日本人が多少は無理のある方位解釈をおこなったことも,非難するには当たらない。むしろ,非難に値するのは,平安時代になって,王朝貴族たちが本気で〈方違(かたたがえ)〉などの迷信を広めたことのほうである。
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北 (きた)

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日本歴史地名大系 「北」の解説


きたなだ

市北部の瀬戸内海に面した地域一帯をさす名称。名称は同地域が徳島県の最北端に位置し、島嶼部を除いて唯一徳島県が瀬戸内海の播磨灘に面する地であることに由来するとみられる。吉野川流域とは讃岐山脈(阿讃山脈)を隔てており、平地部には乏しいため、古来より漁業を中心に生業が営まれてきた。古くは島田しまだ島北端のむろから讃岐国境にかけての漁場を北浦と称していた。江戸時代には櫛木くしき粟田あわた大浦おおうら宿毛谷すくもだにとりまる折野おりの大須おおず碁浦ごのうらの八ヵ村は北灘八ヵ村とよばれ(元居書抜)、文化七年(一八一〇)の板野郡中郷高取に北灘組とみえる(鳴門市史)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北」の意味・わかりやすい解説


きた

北海道中西部,岩見沢市北西部の旧村域。石狩平野の中央に位置する。 1919年村制施行。 2006年岩見沢市に編入。旧村名は開拓功労者の北村雄治の姓による。石狩川東岸を占める代表的米作地帯。

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