江戸時代の講釈師の異称。《太平記》など軍書を読んで人気があった。仏教の唱導の系列から出たもので,《平家物語》は平曲となったが,《太平記》は説教僧,物語僧らによる講釈となった。近世初期に大運院陽翁(法華法印日応)らが《太平記評判秘伝理尽鈔》を著したが,これは《太平記》の評論を集大成したもので,後世の〈太平記読み〉の台本の正統となり,その伝授法が諸侯の間で書写されて数種類の末書を生んだ。また1668年(寛文8)に出た原友軒の《太平記綱目》も《理尽鈔》系の《太平記》の読み方を教えている。《続々武家閑談》には〈赤松法印といへる者慶長の頃家康の前に出て度度(たびたび)太平記,源平盛衰記等を進講す,世人之(これ)を呼んで太平記読みと謂(い)へり〉とあり,曲亭馬琴の《燕石雑志》にも〈太平記読み〉の記事が見える。赤松法印は伝記不明の僧であるが,講釈(講談)の歴史の先端につねに名の出る著名人物で,仏教と講釈の深いかかわりを示している。
→講談
執筆者:関山 和夫
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太平記講釈ともいい、講談の源流の一つ。『太平記』を読む物語僧・談義僧は15世紀後半には存在したが、芸能者としてはっきり姿を現すのは、『太平記』を批判・評論した大運院陽翁編『太平記評判秘伝理尽鈔(しょう)』(1645)を読んだ講釈師たちである。元禄(げんろく)(1688~1704)ごろ京より江戸に下った赤松清左衛門(せいざえもん)が著名で、浅草御門の傍らで読んだため、この地の講釈場は太平記場とも称された。18世紀初頭を過ぎると、『太平記』よりも『太閤記(たいこうき)』『三河後風土記(みかわごふどき)』などの軍談が喜ばれるようになった。まず本文を素読みし、当時の事情など説明していくうちに嘘(うそ)が混じり、だんだんおもしろくなっていき、政治、兵法など万般にわたっての批評を行うという段取りで読まれた。近松門左衛門作『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』(1715)に登場する京都岡崎の講釈師赤松梅竜は、仕方で「楠湊川合戦(くすのきみなとがわかっせん)」を読み木戸銭五文と書かれている。
[延広真治]
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…赤松一族の石野氏置のことが《寛政系譜》に〈家康御伽(おとぎ)衆二千五百石〉とあるので,氏置をもって赤松法印と推測することができるが,不明。赤松を名のる講釈師が江戸時代に頻出したことから,赤松家の子孫が〈太平記読み〉となって先祖の偉業を称揚したことが想像される。【関山 和夫】。…
…歴史的には,仏教の経典講釈,法門講談の系列の中に戦記物語が加わり,講釈・講談はしだいに話芸の形態をもつようになったと考えられる。そのことは,講談の源流といえる〈太平記読み〉にしても,その《太平記》の作者が小島法師なる人物として伝えられることや,《太平記》の評論の集大成である《太平記評判秘伝理尽鈔(りじんしよう)》の各地への伝播者に法華法印日応という説教僧があったことなどから察知できる。《平家物語》《源平盛衰記》《太平記》が琵琶法師や物語僧によって口演されたのは,仏教における唱導(説教)の変形ともみられる。…
※「太平記読み」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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