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江戸幕府の地方行政機関,遠国奉行の一つ。南都奉行ともいう。奈良町および大和一国の民政,寺社のことを管掌する。関ヶ原の戦後,はじめ大久保長安配下の奉行衆が奈良支配にあたったが,1613年(慶長18)よりかつて興福寺の被官であった中坊氏が起用され,これ以後奈良奉行の職名がおこった。しかし中坊氏の時代には,中世において大和支配の権を有していた春日社・興福寺対策にその主要な任務があり,民政上の権限は確立しておらず,また大和国内の幕領代官をも兼任するなど,制度的には過渡的な段階にあった。64年(寛文4)土屋利次の奉行就任以降,奈良奉行と代官の職掌は分離され,奈良および大和一国の民政一般を管掌するようになり,奉行所機構も整備されて制度的確立を見た。80年(延宝8)ごろから地論,水論など裁判権の一部は京都町奉行所支配に移管。老中支配下にあり,所司代の指揮を受ける。定員1名。1650年(慶安3)より与力6騎,同心30人が付属。
執筆者:杣田 善雄
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江戸幕府の職名。遠国(おんごく)奉行の一つ。南都奉行ともいう。17世紀初頭には大久保長安(ながやす)の下代衆が、長安失脚後は興福寺衆徒で春日(かすが)社の造営や祭礼奉行にあたっていた中坊(なかのぼう)氏が起用され、京都所司代板倉勝重(かつしげ)や金地院崇伝(こんちいんすうでん)らの指示を受けて、奈良および大和(やまと)国の民政にあたっていた。その権限は小さく、重要事項についてはほとんど上級者の指示・判断を仰いだ。奈良奉行の制度が整えられたのは1664年(寛文4)で、民政一般は奈良奉行、大和の天領支配は奈良代官と、職掌が分離された。老中支配であるが、所司代および京都町奉行と相談のうえ政務を沙汰(さた)した。芙蓉間詰(ふようのまづめ)、奈良在住、1000石高、役料1500俵、与力8騎、同心30人を付属、定員1名(1696~1702年は二人役)。
[鎌田道隆]
南都奉行とも。江戸幕府の職名。遠国奉行の一つで,山田奉行と同格。職掌は奈良町の民政,寺社の警衛および春日大社などの神事の監督,大和一国の政務を京都町奉行と分担して行った。1613年(慶長18)初設(異説がある)。当初は中坊家の世襲。定員1人(一時2人)。老中支配で,京都所司代の指揮をうけた。芙蓉間席。1787年(天明7)の武鑑では役高1000石,役料1700俵。従五位下。属僚に与力6騎,同心30人。
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