江戸時代,京都に置かれた江戸幕府の遠国奉行の一つ。17世紀中ごろの畿内支配体制の改革にともない,所司代や上方郡代の職務の一部を吸収,拡大しながら1668年(寛文8)成立した。職務内容はきわめて広範で,1722年(享保7)までは洛中の検断権のみならず,上方8ヵ国(山城,大和,摂津,河内,和泉,近江,丹波,播磨)の幕領・大名領・寺社領などの公事(くじ)訴訟の裁許権を有し,また上方幕領貢租を賦課監閲し,寺社方への触も伝達した。綱吉政権期には老中,勘定頭と並んで幕領支配の最高責任者であったが,18世紀以降その地位は低下し,1722年,支配国は山城,大和,近江,丹波の4ヵ国となり,他は大坂町奉行の支配国となった。人員は2名で月番で執務したが,1696-1702年(元禄9-15)に3名となり,伏見奉行を兼帯したときもあった。老中支配で石高は1500石,役料 600石。それぞれ与力20騎,同心50人が付属した。1867年(慶応3)廃止。
執筆者:菅原 憲二
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江戸幕府の職名。遠国(おんごく)奉行の一つ。江戸初期、伏見(ふしみ)郡代小堀政一(こぼりまさかず)(遠州(えんしゅう))と並び畿内(きない)近国支配に大きな役割を果たした京都郡代五味豊直(とよなお)の系譜につながる。1668年(寛文8)、それまで京都所司代が握っていた京都市中の支配権を移譲されて成立。その権限はきわめて大きく、京都市中の直轄、山城(やましろ)国内の民政全般、畿内近国8か国の地方関係公事訴訟裁許、同8か国の寺社支配、上方(かみがた)代官衆の統轄など。しかし、1722年(享保7)の国分けにより、摂津、河内(かわち)、和泉(いずみ)、播磨(はりま)の公事訴訟が大坂町奉行の所管となり、その権限は半減された。老中支配、1500石高、役料600石、定員は元禄(げんろく)期(1688~1704)を除き2名(東西と俗称)、各与力20騎、同心50人を付属。大事については京都所司代の指示を受けた。
[鎌田道隆]
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江戸幕府遠国奉行の一つ。江戸初期には京都所司代と代官奉行が上方支配を統轄していたが,1668年(寛文8)両者から京都町方支配,山城国の年貢徴収事務を除く村方支配,五畿内・近江・丹波・播磨8カ国(1722年から山城・大和・近江・丹波4カ国)の公事訴訟裁許権および寺社支配などの職務を継承した町奉行制が成立した。人員は,1696~1702年(元禄9~15)の3人の時期を除き,東西の2人。老中支配。従五位下。役高は1500石,役料は現米600石。現米80石の与力20騎,現米10石3人扶持の同心50人ずつが所属。1867年(慶応3)廃止。
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…通説では町組を代表する年寄と役所を仲介して雑務を弁じた使用人,いわゆる〈町役の代理人〉だとするが,これは1818年(文政1)に裁決をみた町代改義一件で確定したもので,その職務も性格も,成立期以来かなりの変化がある。〈冷泉町大福帳〉天正10年(1582)の項に5人の町代の名が見えるのが初見とされ,初期は所司代の町政執行の補助機関であったと思われるが,1668年(寛文8)京都町奉行所成立後は,西町奉行所に町代部屋(春日部屋)が設けられ,昼間1人ずつ交代で出仕した。また,後には上(かみ)町代・下(した)代(下町代)の序列も生じ,上町代は1~2人の下代と,3人の小番(使用人)を擁して担当町組に対する事務処理に当たり,町組からは一定額の役料(給料)が与えられ,職分はときには株として売買されることもあったが,多くは世襲であった。…
※「京都町奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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