奈良屋茂左衛門(読み)ナラヤモザエモン

デジタル大辞泉 「奈良屋茂左衛門」の意味・読み・例文・類語

ならや‐もざえもん〔‐モザヱモン〕【奈良屋茂左衛門】

[?~1714]江戸中期の豪商。江戸深川の材木商日光東照宮の修築で巨富を積み、紀国屋文左衛門と並び称された。資産を継いだ子が吉原で豪遊した話は有名。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「奈良屋茂左衛門」の意味・読み・例文・類語

ならや‐もざえもん‥モザヱモン【奈良屋茂左衛門】

  1. 江戸中期の深川の材木商。通称奈良茂。姓は神田氏。
  2. [ 一 ] ( 四代 ) 号は安休。日光東照宮修理を機に巨富を得、紀国屋文左衛門と併称された。正徳四年(一七一四)没。
  3. [ 二 ] ( 五代 ) 号安知。四代の資産を継承し、驕奢をきわめ花街芝居などに大金を費した。元祿八~享保一〇年(一六九五‐一七二五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「奈良屋茂左衛門」の解説

奈良屋茂左衛門(4代)

没年:正徳4.6.13(1714.7.24)
生年:生年不詳
江戸中期の江戸の豪商。一般に奈良茂という。姓は神田氏。紀伊国屋文左衛門と吉原などで派手な遊興を争った奈良茂は,この4代茂左衛門勝豊。法名安休。父母は江戸の小商人。幼少のころ江戸の材木屋に使われ,商売を覚えた。元禄前代には独立して小店舗を持ち,材木丸太の商いを始める。天和3(1683)年5月日光に数次の大地震があって,東照宮が倒壊したため,その修復工事の請負のことがあった際,狡猾な手段を使い,請負に成功,巨利を占め,元禄期(1688~1704)には江戸屈指の材木問屋になった。江戸は火災が多く材木商売が繁昌し,一代にして巨額の資本を蓄積した。当時奈良茂は幕府の勘定方役人との関係を深めるため,吉原などの社交場で豪遊することがあり,江戸市民に巨額な富と事業の盛大さを印象づけた。その様子はのちの文学や随筆の世界(『江戸真砂六十帖』など)に記されている。60歳代で奇病のため世を去るが,そのとき多額の遺産を残した。遺言状によれば,家屋敷・有金・預ケ金の合計は金13万2530両。これを長男の5代茂左衛門に金7万390両,次男安左衛門に金5万70両,妻に3000両,親類に5130両,手代らに3640両を配分している。当代としては極めて多額の遺産である。そして2人の息子に幕府相手の事業は困難であるから,土地貸家による収入で生活するよう親心を示した。息子たちは何もすることがないので,あるいは芝居に入れあげ,吉原などで遊興し,書画骨董大半を浪費してしまった。なお,4代目と5代目奈良茂が混同されて伝えられる場合が多い。墓地は東京・深川霊巌寺別院雄松院にある。<参考文献>『神田家文書』(国立国文学研究資料館史料館蔵),『東京市史稿』産業編10,鶴岡実枝子『「奈良茂家」考』(『史料館研究紀要』8号),中田易直「商人の経済生活」(『江戸風俗』3巻)

(中田易直)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「奈良屋茂左衛門」の意味・わかりやすい解説

奈良屋茂左衛門 (ならやもざえもん)

江戸中期の江戸の材木商。姓は神田氏。通称奈良茂。初代勝義の寛永年中(1624-44)から深川霊岸寺に住し,3代逢勝早世のあと,弟の4代勝豊は材木商に奉公し28歳のとき独立,日光東照宮修復工事の御用材納入を請け負って巨利を占めた。東湊町一丁目に本居を構え,地震,大火多発に加え,元禄期(1688-1704)の寺院建立・土地造成ブームに便乗して公営工事の請負業者として,短期間に巨万の富をきずいた。同時期の紀伊国屋文左衛門とともに特権的投機商人の典型とされる。1710年(宝永7)店じまいし,隠居落髪して安休と号し,14年(正徳4)60歳ぐらいで没。5代広璘(1695-1725)は弟勝屋(安左衛門)とともに13万両余の遺産を継いだが,父安休の遺誡に背き驕奢を好み,吉原,芝居茶屋などでの豪遊ぶりが世に喧伝されたことは《江戸真砂六十帖》など,後年の文学・随筆類に記されている。菩提寺は深川霊巌寺別院雄松院。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奈良屋茂左衛門」の意味・わかりやすい解説

奈良屋茂左衛門
ならやもざえもん
(?―1714)

元禄(げんろく)時代の材木商。一代で富豪に成り上がった。略称奈良茂(ならも)。豪商紀文(きぶん)と並び称された。姓は神田、名は勝豊、剃髪(ていはつ)して安休と号す。茂左衛門は代々の通称で、勝豊は4代目。日光東照宮修築の際、材木調達を請け負い、ぬれ手に粟(あわ)の大もうけをしたという。以後、寺社を盛んに建立した徳川綱吉(つなよし)政治の時流に乗り、幕府の材木御用達(ごようたし)として巨富を積んだ。しかし将軍綱吉が没した翌年の1710年(宝永7)には材木商を廃業、安楽に暮らせる貸家業に転じた。正徳(しょうとく)4年6月13日没。法名は還到院楽誉西谷安休居士。遺産は13万2000両余で、内訳は家屋敷30か所(沽券(こけん)高4万4000両余)、現金約4万8000両、貸金4万両。莫大(ばくだい)な遺産は長男広璘と次男勝屋が遊興にふけり散財したが、紀文のように完全には没落せず、幕末まで中流の江戸町人として面目を保ち存続した。

[竹内 誠]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「奈良屋茂左衛門」の解説

奈良屋茂左衛門
ならやもざえもん

1655?~1714.6.13

江戸中期の江戸の材木商人。通称奈良茂(ならも)。姓は神田,諱は勝豊,安休と号す。寛永年間以来代々深川霊岸島に居住。茂左衛門勝豊は4代目にあたる。伝承によれば,勝豊は裏店住いの車力ないし小揚人足の子で,材木問屋奉公ののち独立,日光東照宮の修復用材調達請負を契機に巨利を得,一代で急成長したという。勝豊は貸金と不動産所得を柱とした家産維持を子孫に遺命したが,5代目茂左衛門広璘と弟安左衛門勝屋は遊興で膨大な遺産の多くを使いはたし,以降同家の経営は衰退した。紀文(きぶん)(紀伊国屋文左衛門)・奈良茂と併称される英雄的豪商としての伝承は,4代目の出世譚と5代目兄弟の行状をあわせて形成されたと考えられる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「奈良屋茂左衛門」の意味・わかりやすい解説

奈良屋茂左衛門【ならやもざえもん】

江戸時代の豪商。通称奈良茂。姓は神田氏,代々茂左衛門を称す。初代から江戸深川霊岸(れいがん)島に住し,4代〔?-1714〕は材木商を営み,日光東照宮修築ほかで巨富を得た。5代〔1695-1725〕は資産を継承したが,父の遺誡に背き驕奢(きょうしゃ)をきわめ,吉原や芝居茶屋での豪遊で有名。→紀伊国屋文左衛門

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「奈良屋茂左衛門」の解説

奈良屋茂左衛門(4代) ならや-もざえもん

?-1714 江戸時代前期-中期の豪商。
江戸深川霊岸島で材木商をいとなむ。天和(てんな)3年日光の大地震で東照宮が倒壊した際,修復工事をうけおって巨利をえた。江戸で火災がおきるたびに商売は繁盛し,巨万の富をきずいた。紀伊国屋文左衛門とならび称される。正徳(しょうとく)4年6月13日死去。江戸出身。姓は神田。名は勝豊。号は安休。奈良茂(ならも)とよばれた。

奈良屋茂左衛門(5代) ならや-もざえもん

1695-1725 江戸時代中期の豪商。
元禄(げんろく)8年生まれ。4代奈良屋茂左衛門の長男。遺産13万2000両余を弟勝屋とともにうけつぐ。紀伊国屋文左衛門とはりあうなど,弟ともども吉原などで豪遊をかさね,家運をかたむけた。享保(きょうほう)10年9月3日死去。31歳。江戸出身。姓は神田。名は広璘。号は安知。奈良茂(ならも)とよばれた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奈良屋茂左衛門」の意味・わかりやすい解説

奈良屋茂左衛門(2代目)
ならやもざえもん[にだいめ]

[生]元禄8(1695)
[没]享保10(1725)
江戸時代の豪商で代々その名称を用いた深川の材木問屋。通称,奈良茂。本姓,神田氏。初名,戌松。号,泰我。1代目の遺産 (40万両といわれる) を受継ぎ,豪華,驕奢を好み,吉原で豪遊したという。元禄時代の江戸町人の気風を代表した人物といわれている。吉原の名妓玉菊の一周忌に,岩本乾什に依頼して『水調子』という浄瑠璃を作り追弔した話は有名。

奈良屋茂左衛門(1代目)
ならやもざえもん[いちだいめ]

江戸時代の豪商で,代々その名を用いた深川の材木問屋。天和3(1683)年の大地震のあと,日光東照宮の社殿の改築工事で材木の調達を請負って巨富を得た。屈指の材木商となり,紀伊国屋文左衛門と並び称された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「奈良屋茂左衛門」の解説

奈良屋茂左衛門
ならやもざえもん

江戸時代の豪商。代々,茂左衛門を襲名した
〔4代目(?〜1714)〕 江戸深川の材木商。日光東照宮社殿修理などで巨利を得,1代で急成長した。〔5代目(1695〜1725)〕 通称奈良茂。40万両に及ぶ初代の遺産で豪遊,紀文(紀国屋文左衛門)と並び称された。江戸町人気質の代表的人物。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の奈良屋茂左衛門の言及

【家法】より

…江戸時代の大商家にあっては,経営基盤が親族・同族の上に拡大され,その全体の秩序を維持することが困難になった時点で,家制度を確定する家法が生み出された。元禄期(1688‐1704)の投機型商人として一代で産をきずいた奈良屋茂左衛門の1714年(正徳4)の遺言状は,死後の財産管理についての指針を示した家法の先駆的なものといえる。17世紀以降三都に呉服・両替店を設けた三井家の家法は,初代高利の1694年の遺書を祖型とし,1722年(享保7)2代高平の《宗竺遺書》によって確定したといわれ,また大坂随一の豪商鴻池家の場合も,その家法とされる23年の《家定記録覚》は経営の基礎を固めた3代宗利の作成した《先祖之規範幷家務》を集大成したものである。…

【木場】より

…元禄期(1688‐1704)には幕府の建築事業が多かったため,御用材の調達を請け負う大商人が出現した。紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門は代表的商人である。とくに紀文は遊里での豪遊などで著名であった。…

※「奈良屋茂左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android