非喫煙者の健康と生命を守るために、公共交通機関、病院の待合室、レストランなどの公共の場所や、職場のような共有の生活空間での禁煙・分煙などの喫煙規制を、社会的、制度的に確立することを目ざす権利主張。
1978年(昭和53)2月28日、東京に「嫌煙権確立をめざす人々の会」が、同年4月4日「嫌煙権確立をめざす法律家の会」が誕生した。それまで、日本はたばこをどこで吸っても自由、吸い殻をどこへ捨ててもおかまいなしという、喫煙放任社会であった。しかし、自分では喫煙しなくても他人のたばこの煙で汚れた生活空間にいると、急性・慢性の深刻な健康影響を受けるという「受動喫煙passive smoking」(「間接喫煙」または「環境たばこ煙」ともいう)の有害性を明らかにする動物実験や疫学調査の結果が世界的規模で次々に報告された。
非喫煙者にとっては、喫煙者が吐き出すたばこの煙は不快である。灰皿などの置きたばこから立ち上る煙(副流煙)はもっと不快である。副流煙は、喫煙者の肺に吸い込まれる煙(主流煙)よりも刺激性が強く、発がん物質などの有害成分の含有量も多いため、室内空気汚染源として大きな問題となる。
[伊佐山芳郎]
国立公衆衛生院(現、国立保健医療科学院)の淺野牧茂(1928―2014)らによる、人間を被験者にしての急性受動喫煙実験はつとに知られている。平均的職場環境を想定した環境下で、非喫煙者を受動喫煙にさらした場合、呼気中の一酸化炭素濃度が上昇するほか、心拍数増加、血圧上昇、指先皮膚温度の低下などの顕著な変化があったことが確かめられている。
淺野らのウサギの鼻先からたばこの煙を吸わせる実験結果によれば、受動喫煙によって動脈硬化が発生する仕組みには、血液中に入ったニコチンおよび一酸化炭素の作用だけではなく、それに加えてたばこ煙の刺激による鼻咽頭(びいんとう)の反射によって生じた交感神経作用による血管収縮も関係する。淺野は、わずか一条の鼻先へのたばこ煙(副流煙)を吸い込んだだけでも、その健康影響は無視できないと警告している。
1966年(昭和41)から1981年にわたって、当時国立がんセンター(現、国立がん研究センター)研究所疫学部長だった平山雄(たけし)(1923―1995)が、6県29保健所管内の40歳以上の健康な妻9万1540人のなかから発生した200人の肺がん患者を調べた調査によれば、夫が喫煙する家庭においては、妻が喫煙しなくても肺がんにかかって死亡する危険性が高まることが確認された。1日に夫が吸う喫煙本数が14本以下では1.42倍、15~19本では1.53倍、20本以上では1.91倍、それぞれ夫が吸わない場合と比べ、たばこを吸わない妻の肺がんリスクが高くなることがわかった。1990年までの世界の医学専門家による疫学調査でも、その多くは、夫が喫煙する場合の妻が肺がん死する相対危険度が高くなると報告している。このような医学専門家の調査報告は枚挙に暇(いとま)がない。
[伊佐山芳郎]
嫌煙権運動は、公共の場所などの禁煙・分煙を社会的に確立することを目ざす権利主張である。そこで市民運動は、公共の場所の代表ともいうべき当時の国鉄を被告として、国鉄列車のうち半数以上の客車を禁煙車とすることを求めた嫌煙権訴訟を提起した(1980年4月7日、東京地裁に提訴)。これに対し、当時の国鉄は、提訴半年後の1980年(昭和55)10月1日から新幹線「ひかり」の自由席車両の1両を禁煙車とし、続いて1982年11月15日から全国の特急列車の自由席車両1両を禁煙車とした。さらに1985年4月からは禁煙車を増やすとともに、指定席にも禁煙車を新設した。1987年に民営化された後も禁煙化の動きは強化され、JR各社はダイヤ改正に伴って禁煙車を増やし続けた。1996年(平成8)には、新幹線などの禁煙車両率は60%前後(16両編成の場合、10両が禁煙車)の水準に達した。日本航空、全日空などは、1998年秋から国内路線を全面禁煙とした。また、両航空会社とも1999年3月下旬あるいは4月始めから、それぞれ国際線についても全面禁煙とした。
日本政府の取組みとしては、1997年6月、平成9年度厚生白書の「生活習慣病」のなかに、初めて「喫煙習慣を考える」という項目が登場した。厚生白書は閣議により承認されたものであり、政府レベルで喫煙問題の基本的考え方が確定されたわけである。この「喫煙習慣を考える」の巻頭は、次のようにいう。
「喫煙が健康へ与える影響は大きく、本人のみならず、周囲の人々にも『受動喫煙』によりさまざまな危険性がある。そして、喫煙習慣は個人の自由意思に基づく嗜好(しこう)の一つとされてきたが、一方で、喫煙習慣をニコチンによる依存性の視点からとらえることが重要である。したがって、喫煙習慣は個人の嗜好の問題にとどまるのではなく、健康問題であることを踏まえ、たばこ対策を一層推進することが求められている」
2002年(平成14)には指定地区内での路上喫煙と吸い殻を路上等に捨てることを禁止する条例が東京都千代田区で施行され、違反者には罰則が科せられることとなった。同様の条例は以前からあったが罰則として過料を課すのは全国初である。また、受動喫煙を防止する規定を盛り込んだ健康増進法が2003年5月から施行された。さらに2018年9月の改正で多くの者が利用する施設の敷地内は原則禁煙、屋内は完全禁煙(既存小規模飲食店などは経過措置として適用除外)とされ、罰則規定も設けられた。
受動喫煙問題は、快、不快というレベルで済まされるほど軽いことではなく、非喫煙者の健康被害をもたらすという意味で、現代最大の人権問題の一つといわなければならない。嫌煙権の法的根拠は、憲法第25条の「健康権」であり、同第13条の「幸福追求権」である。心身ともに健康であること、生命を大切にすること、これは人間の尊さの原点である。
[伊佐山芳郎]
受動喫煙に関する国際的な動向としては、「喫煙とその健康に及ぼす影響」に関するWHO(世界保健機関)の専門委員会が、1974年、「紙巻たばこを吸うことによって、毎年何百万人もの生命が脅かされていることは疑問の余地がない」と結論づけたうえで、「喫煙の害および受動的喫煙の害から国民を守る」ための具体的行動計画を示して、各国政府関係機関に対して勧告を行った。これを受けて、アメリカやヨーロッパ諸国は喫煙規制に向けて積極的な対策を打ち出したが、とくにアメリカでは喫煙をめぐって画期的な判決が出された。ニュー・ジャージー州高等裁判所は、1976年12月、たばこの煙が充満した職場では働けない女性従業員ドナ・シンプDonna Shimpの主張を認め、職場内の喫煙は、特定の定められた喫煙場所以外では禁止すると命じた。その後サンフランシスコの米連邦高等裁判所は、1982年10月、連邦政府女性職員の訴えを認め、禁煙のオフィスが用意されない場合、彼女は身障者年金を受ける資格をもつ法的な身障者と認定する判決を下した。さらに同市では1983年11月、住民投票の結果、オフィス内の喫煙規制を内容とした「嫌煙条例」が、賛成多数で成立した。
さらに、1992年、アメリカ環境保護局(US-EPA)は、「受動喫煙の呼吸器への健康影響:肺がんおよびその他の疾患」Respiratory Health Effects of Passive Smoking ; Lung Cancer and Other Disordersのなかで、世界中で行われた30件の疫学調査を総括し、環境たばこ煙(受動喫煙)を「ヒトにがんを引き起こすことが確実に証明された発がん物質」(Aグループ発がん物質)と認定した。アメリカ環境保護局はこれまで、アスベスト、ラドン、ベンゼンなど15種類の物質を「Aグループ発がん物質」としているが、これに環境たばこ煙を新たに加えた。
次に、1997年2月、アメリカ・カリフォルニア州環境保護庁(Ca-EPA)は「環境たばこ煙曝露(ばくろ)による健康影響」Health Effects of Exposure to Environmental Tobacco Smokeと題する報告書を発表した。この報告書によれば、環境たばこ煙にさらされることは、肺がんや副鼻腔(ふくびくう)がん、心臓病、冠状動脈疾患などのほか、乳幼児突然死症候群、低出生体重児(未熟児)、気管支喘息(ぜんそく)や慢性呼吸器疾患などの原因となるとしている。
WHOは、1946年の世界保健憲章のなかで、「健康とは単に疾病や虚弱ではないということではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることをいう。到達し得る限り最高度の健康水準を享受することはすべての人間の基本的権利の一つであり、人種、宗教、政治的信念または経済的もしくは社会的条件による差別があってはならない」と定めている。
総じて、医学的な見地から受動喫煙の有害性は明らかであると同時に、受動喫煙の害から非喫煙者を守ることは憲法上の基本的人権であり、非喫煙者が不当な煙害を受けることのない社会の実現が緊急課題である。
[伊佐山芳郎]
この受動喫煙問題の背景には、膨大な数の喫煙者群の存在、とくに子供たちや若い女性の喫煙急増の問題、その原因として、全国に60万台を超えるたばこ自動販売機が氾濫(はんらん)している問題など、大きな課題が山積している。ちなみに、たばこの煙に含まれるものとして、ベンゾピレン(ベンツピレン)などの発がん物質をはじめ、有害化学物質が確認されているだけで200種類を超えており、たばこは毒の缶詰といわれている。そして重要なのは、ニコチンの依存性の問題である。WHO国際疾患分類では、ニコチン依存症は「精神および行動異常症」として分類されている。
こうして受動喫煙問題の抜本的解決には、これらたばこの問題をいっしょに解決していくことがきわめて重要である。
[伊佐山芳郎]
『伊佐山芳郎編著『さらば、たばこ社会』(1987・合同出版)』▽『淺野牧茂著『たばこの害を正しく知る』(1988・労働旬報社)』▽『厚生省編『喫煙と健康』(1993・保健同人社)』▽『林俊郎著『流行する肺ガン』(1997・健友館)』▽『フィリップ・ヒルツ著、小林薫訳『タバコ・ウォーズ』(1998・早川書房)』▽『松崎道幸著「受動喫煙による健康影響」(『臨床科学』第34巻第2号別冊所収・1998・臨床科学社)』▽『粉川宏著『たかが、煙草・されど、たばこ』(2000・イーハトーヴ)』▽『伊佐山芳郎著『現代たばこ戦争』(岩波新書)』▽『伊佐山芳郎著『嫌煙権を考える』(岩波新書)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…世界保健機関(WHO)は,喫煙による健康障害に対処するための加盟各国への勧告の中に,〈タバコ煙に汚染されない大気を非喫煙者が享受する権利を擁護すること〉という1項をとくに加えている。近年,日本でも嫌煙権ということばが日常語として定着しつつあるが,非喫煙者の場合,それが受動的であるとはいえ,健康に対する影響を示唆する研究結果が出されている。この意味で,現在,喫煙と健康の問題は,個人衛生の域を脱して,公衆衛生の次元で検討されねばならぬ時期にきているということができよう。…
※「嫌煙権」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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