中国、春秋時代、鄭(てい)の大夫(たいふ)。鄭の穆公(ぼくこう)(在位前627〜前606)の孫。公子国(こうしこく)の子。名は僑(きょう)、そのため公孫僑(こうそんきょう)ともいう。子産は字(あざな)。紀元前554年卿(けい)となり政治に参画し、前543年執政となり国政をつかさどった。彼は諸公子の内紛を治め、田地の区画や農村の再編、貴人大夫の専横を抑えるなど内政改革に着手し、賦税を改め(前538)、成文法典を鼎(てい)に鋳た(前436)。彼の政治は「天道遠く、人道邇(ちか)し」との言にうかがえるように、迷信を排除して人知を尽くすもので、法治を旨とする。多難な政局にあって鄭国をまとめ、法家の開祖に擬せられる。政局にあること33年、彼の道徳にかなった行動は孔子(こうし)も高く評価している。
[飯島和俊 2015年12月14日]
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… 孔子が理想の人物として思慕したのは,周の礼楽文化を定め,周王朝の基礎をきずいた,名宰相の周公である。直接に強い影響をうけたのは,孔子が30歳のころに没した鄭の子産――人間中心の立場,合理主義を力強く宣言した博学の政治家であった――とみられている。《論語》によるかぎり,孔子は常識人であり,凡人であったのではないか,と思われる。…
…この魏の改革の基本は,農民をはじめ国の構成員をすべて一つの法体系のもとに掌握し,個々の人民から直接租税を徴収して国家財政の基礎とし,貴族の政治への介入を排除しようとするものであった。この傾向はすでに春秋後半にあらわれ,前594年に魯では農民の耕地面積に応じた徴税が行われ,やや遅れて,鄭では宰相子産が,農民を什伍制によって再編成し,隠田(かくしだ)の調査をしたり,新たに軍事費を負担させたり,慣習法に代わって成文法を発布している。これは上述の身分制が崩れ,農村の分解が生じてきたために,従来の慣習法では社会秩序が保てなくなったからであり,また春秋後半から鉄製農具が盛行し,私的な開墾なども行われて,生産が増大し貧富差が拡大してきたことによるものであった。…
※「子産」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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