穆公(読み)ボクコウ

デジタル大辞泉 「穆公」の意味・読み・例文・類語

ぼく‐こう【穆公】

中国春秋時代の王。在位、前659~前621。春秋五覇一人百里奚ひゃくりけいらの賢臣を集めて国政を整え、富国強兵に努め、西戎を討って領土拡大覇者となった。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「穆公」の意味・読み・例文・類語

ぼく‐こう【穆公】

  1. 紀元前七世紀の、中国春秋秦の王(在位前六五九‐前六二一)。繆公(ぼくこう)とも。春秋五覇の一人。賢士内外に求め、由余・百里傒(奚)らを用いて内政を整えた。生没年未詳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「穆公」の意味・わかりやすい解説

穆公
ぼくこう
Mu-gong; Mu-kung

[生]?
[没]穆公39(前621)
中国,春秋時代の秦の君主 (在位前 659~621) 。繆公とも書く。名は任好。父は徳公。秦は中原諸国から夷狄 (いてき) 視されていたが,兄2人の跡を継いで即位すると,他国人の百里けいや蹇叔 (けんしゅく) ら賢人を任用し,国力を高めた。対外政策として晋の恵公,次に文公を擁立して威を張ったが,晋の襄公のためこうの戦いで敗北。しかし穆公 36 (前 624) 年には再び晋を攻撃して大勝する一方,戎人の由余 (ゆうよ) を用いて西方に領土を拡大し,春秋時代秦の第1の賢君として五覇の一人に数えられた。公の死後,多くの家臣が殉死したという。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「穆公」の解説

穆公(ぼくこう)

?~前621(在位前659~前621)

の徳公の子で,兄の成公のあとに秦公となる。孟子(もうし)は春秋の五覇の一人にあげる。春秋時代の秦の君主は王ではなく公といった。治世中,隣国争い,晋軍に包囲されて,野人(在野民衆)300人に救われた。彼らが以前に穆公の善馬を食しても,家畜のために人間を害さずとして救われた恩に報いた。名君穆公を語る故事である。晩年西北に軍を出して西戎(せいじゅう)の覇者となり,177人の殉葬者とともに埋葬された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「穆公」の解説

穆公
ぼくこう

?〜前621
秦の君主(在位前659〜前621)
賢臣を用いて国政を行い,晋の内乱に介入して領土を拡大し,秦の強国化につとめた。「春秋の五覇」に数えられることもある。

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世界大百科事典(旧版)内の穆公の言及

【秦】より

…なお首都はその後,涇陽(けいよう)(陝西省涇陽県),櫟陽(れきよう)(陝西省臨潼県付近)と移り,最終的には前350年(孝公12)に咸陽を都と定め,これが秦滅亡まで首都となる。 春秋時代における秦は,他の中原の諸侯国に比べて後進国に属していたが,それが飛躍的に発展拡大したのが9代目の君主穆(ぼく)公(前659‐前621)のときである。穆公は百里奚(ひやくりけい),蹇叔(けんしゆく)などの賢臣を任用して国政を整えるとともに,東方では晋の内乱に乗じて河西の地を奪い,領土は黄河沿岸に達した。…

※「穆公」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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