幕末・明治時代初期の政治家。文政(ぶんせい)1年8月1日、旗本山口相模守(さがみのかみ)直勝の子として江戸に生まれる。1829年(文政12)伊予(いよ)国(愛媛県)宇和島(うわじま)藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となり、1844年(弘化1)襲封。藩政改革に努めて殖産興業に成績をあげ、また高野長英(たかのちょうえい)や大村益次郎(おおむらますじろう)を招いて洋式軍備の充実を図った。安政(あんせい)期(1854~1860)将軍継嗣(けいし)問題の際には、島津斉彬(しまづなりあきら)、松平慶永(まつだいらよしなが)らと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を画策したが成功せず、安政の大獄を期に隠居し、封を嗣子(しし)宗徳(むねのり)に譲った。1862年(文久2)の島津久光(しまづひさみつ)の公武合体運動に呼応して中央政界に進出、1863年12月一橋慶喜、松平慶永、松平容保(まつだいらかたもり)、山内豊信(やまうちとよしげ)らと朝議参与に任命されたが、横浜鎖港問題で慶喜と衝突し反幕色を濃くした。
1867年(慶応3)12月新政府の議定(ぎじょう)に就任、外国事務総督、外国官知事として政府発足当初の外交責任者を務めた。1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)兼大蔵卿、翌1870年7月の民蔵分離によって、大蔵卿専任。1871年4月欽差(きんさ)全権大臣に任命され清国(しんこく)差遣、7月29日大日本国大清国修好条規(日清修好条規)を締結した。帰国後、麝香間祗候(じゃこうのましこう)、外国貴賓の接遇にあたった。明治25年12月20日没。
[毛利敏彦]
『兵頭賢一著『伊達宗城公傳』(2005・創泉堂出版)』▽『楠精一郎著『列伝・日本近代史――伊達宗城から岸信介まで』(朝日選書)』
(長井純市)
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伊予国宇和島藩8代藩主。旗本山口直勝の次男で,伊達宗紀(むねただ)(春山)の養子となる。1844年(弘化1)に襲封し,幕末四賢侯の一人に数えられる。宗紀の文政・天保期の藩政改革の成功の後を受けて,積極的に富国強兵策を展開し,また公武合体運動を推進した。44年高野長英,53年(嘉永6)村田蔵六(大村益次郎)を来藩させて軍事の近代化に努め,また威遠流砲術を確立させた。54年(安政1)からは一橋派として活動し,58年井伊直弼によって隠居させられた。その後も藩政を指導し,62-67年(文久2-慶応3)に4回入洛して公武合体運動に関係し,参与会議の一員にもなった。王政復古に際し議定となり,鳥羽・伏見の戦では中立を守った。69年(明治2)参議,民部卿兼大蔵卿の要職に就き,71年には欽差全権大使として清国へ赴いた。83年には修史館副総裁となっている。
執筆者:三好 昌文
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1818.8.1~92.12.20
幕末期の大名。伊予国宇和島藩主。父は旗本山口直勝。号は南洲,諡して藍山公。1829年(文政12)7代藩主宗紀の養子となり,44年(弘化元)家督相続。遠江守。徳川斉昭・徳川慶勝・松平春嶽(慶永)・島津斉彬(なりあきら)・黒田長溥(ながひろ)・阿部正弘らと親交をもち,政治・国際情報や意見を交換。また高野長英をかくまい蘭書翻訳を行わせ,村田蔵六(大村益次郎)を招いて蘭学を講じさせ,台場築造・軍艦建造を行った。幕府内情を把握する情報通で,一橋慶喜(よしのぶ)を将軍に推したが,安政の大獄で隠居を命じられた。文久期以降公武合体を唱え,上京して朝議参与,四侯会議の一員として国事を周旋。67年(慶応3)王政復古で議定に就任,以後,外国事務総督・民部卿兼大蔵卿などを歴任。
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…国学者には大洲の矢野玄道(はるみち)がある。宇和島藩は伊達宗城(むねなり)がさかんに蘭学を摂取した。嘉永年間に高野長英,村田蔵六(大村益次郎)が来藩し,藩内にはシーボルトの弟子二宮敬作とその甥三瀬周三(諸淵(もろぶち))がいた。…
…化政期の藩財政の窮乏の後,7代宗紀(むねただ)は文政・天保期の改革を行い,木蠟などの積極的殖産興業策を展開した。8代伊達宗城(むねなり)は幕末四賢侯の一人に数えられる公武合体派の有力大名であり,弘化~安政期以降強兵政策を展開し,高野長英らを来藩させた。9代宗徳のとき廃藩を迎え,宇和島県となる。…
…日本と中国清朝との間に締結された最初の修好通商条約。1871年9月13日(明治4年7月29日)日本側全権大蔵卿伊達宗城と清国側全権直隷総督李鴻章との間に調印,73年3月9日批准,94年8月1日,日清開戦により失効した。明治政府は係争中の対朝鮮修交問題を有利に解決するため,朝鮮の宗主国である清国と対等条約を締結することを希望した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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