安土(あづち)桃山時代の土木技術者。河内(かわち)国久宝寺(きゅうほうじ)(大阪府八尾(やお)市)の人。豊臣(とよとみ)秀吉に仕えて大坂築城の工事に従い、功により城南の地を賜った。のち給地の開発を志し、従弟(いとこ)治兵衛・九兵衛らと、旧梅津川を拡掘して、これを東横堀(よこほり)川から木津川に貫流させようとし、1612年(慶長17)工事を始めた。しかし工事なかばに大坂の陣が起こり、大坂方に加わって討ち死にした。没後、九兵衛らが遺志を継いで工事を続け、15年(元和1)11月完成させた。初め南堀川とよんだが、大坂城主となった松平忠明(ただあきら)が道頓の忠死を哀れみ、その名を残すため改めて道頓堀川と命名した。以上が通説であるが、近時、道頓は安井姓ではなく、平野郷町の七名家の一つである成安家の出で、成安道頓が正しいとする説が有力である。
[岡本良一]
『牧英正著『道頓堀裁判』(1981・岩波新書)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…軍需物資の調達・輸送,金融,城下町整備などで活躍し,ときには代官的な役割を果たした。大堰川,富士川,高瀬川などを開削して米や物資の輸送を可能にし,通船料取得の特権をえた角倉了以や,大坂の道頓堀川を開削して水上交通と市街の発達に寄与した安井道頓,中之島を開発して市場を開いた淀屋个庵(こあん)などが著名である。彼らは幕藩権力と結びつき,政商的性格をもっていた。…
…通常中央区に属する部分を道頓堀川,西区を流れる部分を西道頓堀川と呼ぶ。その開削について従来の定説では,河内久宝寺の豪族安井道頓が豊臣秀吉に仕えて大坂城造営に従事し,功により城南の地を下賜されたが,城下町の繁栄にともない給地に漕運の要を痛感,従弟の安井治兵衛,安井九兵衛(道卜),親類の平野藤治とともに私財を投じ,久宝寺の農民を招集して1612年(慶長17)開削に着手したが,未完成のうちに大坂の陣が始まり,陣中に戦死した。陣後,安井九兵衛,平野藤治は道頓の遺志を継いで工事を再開,15年(元和1)完成した。…
※「安井道頓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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