安土城跡(読み)あづちじようあと

日本歴史地名大系 「安土城跡」の解説

安土城跡
あづちじようあと

[現在地名]安土町下豊浦

安土山(一九九メートル)織田信長が築いた山城。国指定特別史跡。永禄一一年(一五六八)近江に侵入した信長江北の浅井氏を懐柔、江南の六角氏を攻略し、いったんは近江を掌握した。しかし、元亀元年(一五七〇)四月には浅井氏・朝倉氏・六角氏に本願寺・一向一揆を加えた反織田勢力が近江各地に挙兵する。このとき信長は中川重政を「安土城」に配して江南の鎮圧にあたらせている(信長公記)。当地は中世東海道の脇街道であったしも街道(のちの朝鮮人街道)が通るとともに、琵琶湖対岸への舟運の便もよい水陸交通の要衝で、さらに三方を内湖が取囲む天然の要塞であった。元亀二年九月、金森かねがもり(現守山市)の一向一揆を攻略した信長は、叡山を焼打ち、天正元年(一五七三)には浅井・朝倉氏を滅ぼし、翌三年八月までに東海・北陸・近畿を平定した信長は、天正四年一月、天下布武の拠点として当城の築城を開始した。丹羽長秀を普請奉行として、周辺の寺社の石仏・板碑・礎石・五輪塔などの石造物を徴発し、穴太衆によって穴太積みの石垣が築かれた(先に中川重政が立籠った安土城との関係は不明)。山頂には外観五層、内部は地下一階・地上六階からなる天守閣が築かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「安土城跡」の解説

あづちじょうあと【安土城跡】


滋賀県近江八幡市安土町、東近江市南須田町にある城跡。琵琶湖に向かって長く半島状に延びた丘陵にある標高199mの安土山に築城され、西南麓から南麓にわたる水堀が城域を画していた。1576年(天正4)、織田信長が丹羽(にわ)長秀を普請奉行として着工し、翌月に岐阜の稲葉山城にいた信長は居を移した。1579年(天正7)には天守閣が完成した。安土での築城は、越後の上杉謙信や北陸の一向一揆衆に対抗する意味もあったが、岐阜より京都に近く、琵琶湖の水運を掌握できる利点もあった。天下布武を唱えた信長の権威のシンボルとして造られた5層7階(地上6階、地下1階)の天守は、内部の柱に金箔が貼られ、外部にも色が塗られており、その豪華な城の様子は、当時、城を訪れた宣教師などが記している。城下町安土は楽市楽座の自由取引で大いに繁栄した。1582年(天正10)の本能寺の変で信長が死んでまもなく、天守があった本丸が焼失し、その後、廃城となった。現在は穴太(あのう)衆が石積みを担った大規模な石垣などの一部を残すだけであるが、当時の建物では二王門と三重塔が安土山南麓の摠見寺(そうけんじ)に伝わり、二の丸には信長の霊廟がある。発掘調査によって南山麓から本丸に続く大手道、通路に沿って造られた羽柴秀吉邸や前田利家邸などの家臣団の屋敷跡、本丸跡などが判明しており、整備・復元作業が進んでいる。1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定された。JR東海道本線安土駅から徒歩約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典 日本の地域遺産 「安土城跡」の解説

安土城跡

(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)
近江水の宝」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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