1855年(安政2)10月2日午後10時ごろ江戸に発生した地震。震央は荒川河口付近で、規模はM6.9と推定される直下地震であった。江戸の町方での倒壊した家屋は1万6000、倒壊した土蔵は1400余、死者約4700人といわれたが、武家・社寺方を含めると、倒壊した家屋は2万、死者は1万人余と考えられる。地震後、火災が約30か所から発生したが、風が穏やかであったことが幸いし翌朝10時ごろには鎮火した。江戸市中の焼失面積は、関東大震災(1923)のときの約20分の1である。現在の江戸川区や葛飾(かつしか)区方面では、地面の割れ目から水や泥が噴出するなどの顕著な液状化現象がみられた。津波はなかったが、深川(ふかがわ)や木更津(きさらづ)(千葉県)あたりでは海水の動揺があった。このほか井戸掘り中の地鳴りや、発光現象などの前兆現象が報告されている。
現在の世田谷区のあたりでは被害がなかったことがはっきりしているが、江戸以外の木更津での蔵の崩壊、幸手(さって)付近(埼玉県)での著しい液状化現象や家屋の倒壊、利根(とね)川、荒川流域での被害などが報告されている。
東京直下に、この地震と関連のありそうな地震断層は未発見で断定はできないが、フィリピン海域のプレート中で発生したともいわれている。
[宇佐美龍夫]
江戸市中における被害が大きかったなかで、山の手の被害は比較的少なかったが、小石川の水戸藩邸では藤田東湖(とうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)らが圧死している。幕府は5か所に救小屋(すくいごや)を設置して被災者を収容し、大名には帰国を許したり貸付金の返済延期、旗本・御家人には貸金などの応急措置をした。地震直後から、焼失地域を示す一枚摺(ずり)をはじめ、地震に関する綴本(とじほん)、錦絵(にしきえ)類の出版は甚だ多く、なかでも鯰絵(なまずえ)と称されるものの多くは、震災により巨利を得た大工、左官や材木商などを風刺しており、よく当時の世相を表している。また鯰絵は民俗学の立場からも注目されている。
[南 和男]
『武者金吉編『日本地震史料』(1951・毎日新聞社)』▽『東京都編『安政江戸地震災害誌』(1973・東京都)』▽『荒川秀俊著『災害の歴史』(至文堂・日本歴史新書)』
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