1758年(宝暦8)に京都で朝権回復を志す尊王論者の少壮公卿(くぎょう)らと竹内式部(たけのうちしきぶ)が処罰された事件。儒者、神道者の竹内式部は崎門(きもん)学派、垂加神道(すいかしんとう)に基づいて『日本書紀』『保建(ほうけん)大記』『靖献遺言(せいけんいげん)』などを家塾で講義した。そのなかで武家に政権を奪われた朝家の政権回復の心構えを説く一方、激しく将軍を誹謗(ひぼう)した。現状に不満をもつ門弟の徳大寺公城(きみき)、正親町三条公積(おおぎまちさんじょうきんつむ)、烏丸光胤(からすまるみつたね)、西洞院時名(にしのとういんときな)などの公卿は師の説に深く感銘した。彼らは君徳涵養(かんよう)のため若い桃園(ももぞの)天皇に式部の学説にのっとった『日本書紀』を進講した。しかし事が朝廷と幕府との関係悪化に発展するのを恐れた前関白一条道香(みちか)らは、天皇の嫡母青綺門院(せいきもんいん)を動かして、徳大寺らの官を停(と)め永蟄居(えいちっきょ)など処罰して天皇の周囲から排除した(宝暦8年7月)。一方、式部については、京都所司代松平輝高に連絡して幕府にゆだね、翌59年5月京都町奉行(ぶぎょう)は式部を重追放に処した。式部は京を追われ伊勢(いせ)国(三重県)宇治山田へ退去した。
[山田忠雄]
〈ほうりゃくじけん〉とも読む。江戸中期に竹内式部らが処罰された事件。式部は京都に出て垂加神道と崎門派の儒学を学び,公卿に神書(《日本書紀》),儒書を講じていたが,彼らは式部の学を奉じ,中には軍学を学ぶ者があるといわれた。関白一条道香はこれを憂えていたが,公卿たちは桃園天皇に《大学章句》《孟子集註》を用いて崎門流の講釈をし,また垂加風に神書を進講した。道香の要求で次の関白近衛内前は《日本書紀》の進講停止を命じ,さらに式部から学ぶことも禁止しようとした。徳大寺公城,正親町三条公積を中心とする公卿は天皇をたのみとして聞き入れず,そこで関白は彼らの官職を解き,永蟄居(えいちつきよ)を命じて抑圧した。ついでこれら公卿の動きの元である式部を退去させるよう所司代に告訴した。所司代でははじめは取り合わなかったものの,ついに1758年(宝暦8)式部を重追放に処した。これが宝暦事件で,真相は不明だが,公卿間の対立が原因と想像される。幕府による尊王思想の弾圧とは思われない。
執筆者:田原 嗣郎
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江戸中期に尊王家竹内式部(たけのうちしきぶ)らが処分された事件。1756年(宝暦6)京中洛外で,神道や崎門(きもん)学派の儒学を学んだ式部が公家衆に軍学武術を指南しているとの風聞がたち,同年12月京都町奉行の取調べをうけたが,このときは大きな問題にならなかった。しかし式部の学に傾倒した桃園天皇の近習衆が,天皇に垂加流による「日本書紀」神代巻の講釈を進講したため,危惧した関白ら摂家衆と近習衆との対立をうみ,ついに58年摂家衆が天皇を説得して徳大寺公城(きんなり)ら,式部門人の公家衆を大量処分するとともに,式部を京都所司代に告発した。これにより式部は,59年5月重追放の処分をうけた。
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…好学の聞えが高く,漢学の造詣も後光明天皇以来と,侍読の臣が感嘆したという。在位の間に起きた宝暦事件は王政復古運動の暁鐘といわれるが,一面天皇の旺盛な向学心をうかがわせるものであった。この事件は57年(宝暦7)垂加流の神道家竹内式部に師事した徳大寺公城らの少壮公家がその神道説を天皇に進講したのが発端である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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