小川郷
おがわごう
現東吉野村全域と現宇陀郡大宇陀町南端の一部にあたる中近世の郷名。元禄郷帳の三尾・狭戸・大豆生・麦谷・鷲家・萩原・日裏・伊豆尾・木津・杉谷・平野・滝・谷尻・鷲家口・木津川・小栗栖・中黒(現東吉野村)、上片岡・下片岡・平尾・大熊(現大宇陀町)二一ヵ村を含む(大和志)。「大和志」によれば、現東吉野村のうち小村(現大字小)だけが国栖荘(郷)に属している。
豊臣政権の口役銀に引続き、江戸幕府も慶長九年(一六〇四)に大久保長安を川上・黒滝両郷に派遣、翌年から吉野川下しの材木に口役銀を課している。口役銀は材木売価の一〇分の一で、うち一〇〇両(銀五貫四〇〇匁)を年貢として徴収し、残りは川上・黒滝両郷の百姓助成とした。
小川郷
おがわごう
「和名抄」刊本にみえ、「乎加波」と訓ずる。高山寺本には「山川」とあるが誤りと思われる。「延喜式」神名帳にみえる桑田郡小川月神社(現亀岡市馬路町)は郷内に祀られていたものであろう。
長寛二年(一一六四)一二月日付野口牧下司住人等解(陽明文庫所蔵「兵範記」裏文書)によれば、小川郷内の田伏里・墓廻里・小綱里・猿田里などに摂関家領野口牧(中心地は現船井郡園部町)の範域が及んでいたことが知られる。田伏里以下の里名がみえるが、地名の遺存がなく現地比定はできない。
小川郷
おがわごう
「和名抄」東急本は「乎加波」の訓を付す。「延喜式」神名帳に「小川神社」がみえる。郷域は「大日本地名辞書」は「今中川村大字小川あり」として現嬉野町中川を中心に中村川上流域に及ぶと比定し、「一志町史」もこれに従う。一方「一志郡史」は同町上小川の宇気比神社蔵応永一二年(一四〇五)銘の棟札に「一志郡四郷内小河郷八王子殿」、永享一二年(一四四〇)銘の棟札に「一志郡小河郷」とあることなどから、同地を中心に現一志町波瀬、現美杉村下之川・竹原に及ぶとする。
小川郷
おがわごう
「和名抄」東急本には「乎加波」と訓を付す。天平勝宝八年(七五六)と推定される調庸綾
布墨書(正倉院文書)に「小川郷戸主大伴首三成調
壱匹」とある。
小川郷
おがわごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本ともに「乎加波」と訓じる。あきる野市小川を遺称地とする。多摩川・平井川・秋川が合流する付近一帯に比定される。武蔵国国分寺瓦に「小何」と押印されたものがある。「延喜式」左右馬寮にみえる小川牧も小川郷に置かれていたと推測される。「日本霊異記」下巻七(観音の木像の助を被りて、王難を脱るる縁)に多磨郡小河(川)郷の人正六位上丈直山継が蝦夷征討に出征した時、妻が観音の木像を作り懇に敬供したため災難にあうことなく帰還したとの説話がみえている。
小川郷
おがわごう
「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。オカハと訓じ、現佐原市上小川が遺称地とされる。小川を含む大須賀川流域には古墳時代初期集落跡の大栄町多々羅堂遺跡、六世紀前半代の佐原市禅昌寺山古墳など、台地上には同市山之辺手ひろがり遺跡などの古墳時代後期の集落遺跡があり、また七世紀代の同市関峯横穴群からは阿弥陀三尊と思われる押出仏が出土している。
小川郷
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「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」は「今詳ならず、田村郡守山の辺に、小川の村名の遺るを見れば、やがて其辺にて、御館・高瀬・宮城等にわたるか」とする。近世の小川村は現郡山市田村町小川である。
小川郷
おがわごう
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「乎加波」と訓を付す。「国誌」には川部村(現菊池郡旭志村)の小村に「小河原」があることから、この付近をあてる説がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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